Scribble at 2017-10-15 14:44:30 Last modified: 2022-09-22 12:08:13

昨今、国内外ではマスコミ各社が「自分達が報道しているのはフェイクニュースではない」と躍起になっているけれど、それを声高に叫ぶだけでは何の根拠もないというのがメディアリテラシーの基本なので、やはり報道各社がいつまでも新聞の購読者やニューズ番組の視聴者をバカにし続ける態度を改めない限り、僕らのような人間から見ると、新聞記者と政治家が Twitter でそれぞれ何を書いていようと目くそ鼻くそという話になる。

自分達の報道内容がフェイクではないと胸を張るためには、報道にあたって必要な手続きやソース(情報源を特定できるできないは別として)や記事執筆・編集方針などの説明を、せめてウェブサイトにでも詳細に掲載するべきではないのかな。僕らはテレビ局や新聞社に「真実を語る白紙委任状」を与えた覚えはないよ。マスコミだけでなく大学の研究者であろうと、およそいかなる生物にも真実なるものを無条件に理解したり知ったり語る資格や能力なんてないし、そうしていると暫定的に見做してよいという擬制を制度的に正当化する根拠としての効用なんて、そもそも社会科学の歴史において論証された試しはないだろう。

しかしそうすると、僕はしばしば〈擬制としての権威(方法論的な権威)〉なるものを許容すると言っているのだが、それにも確たる根拠がないということになる。ここで「条件付で許容するなら、どういう条件になるのか」という後ろ向きの保守的な反省を促すインセンティブがあるのはもちろんだが(自分が矛盾した思考をしていないと慰めたくなるのは人情だ)、もちろんそんな自意識のために哲学や思想や社会を扱うのは恥ずべきである。よって、これまでの擬制としての権威主義といものは、再考の余地がある。学術や知識を尊重する社会が良い社会だという見込みで維持してきた理屈ではあるが、その思想としての射程は短すぎる気もする。まぁ、他の凡庸な社会思想に比べたら幾らでもマシなアイデアだと思うがね。

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