Scribble at 2025-08-13 09:10:02 Last modified: 2025-08-15 18:01:58
僕が日頃から保守主義者として軽蔑し非難しているリバタリアンというのは、上の記事で語られている合理主義者とも通じる。アメリカでも、歴史も浅くて思想的な蓄積も浅い状況で、デューイのような人物の主張に同感できない人々(とりわけ都市圏の成金)が、アイン・ランドやフォン・ミーゼスやハイエクのような素人物書きあるいは人でなし経済学者を「思想家」として祭り上げていった過去がある。彼らもまた、口先では「自由」という言葉を弄びつつ、その実態は人々に「自由」を強制して自分たちは既得権益のステージから弱肉強食の闘争劇を眺める観客でしかなく、自分たちがあらかじめ確保した強力な権益や莫大な財産を置く座席には誰も届かないよう、規制緩和や自由競争と福祉の切り捨てをセットにした梯子外しをやる、ようするに権力が制度的なサバンナとしての「自由」を管理する国家社会主義者である(或る意味で「限定合理性」はそういう立場の理論的な支柱になりえるのだから、失笑する他にない)。彼らは自らを自由の使徒と名乗り、1000年前のカソリック教会と同じく一般人には超えられないガラスの壁を作って、神の恩寵を「トリクルダウン」と称するインチキ経済政策で正当化する。
社会思想を学んだ人々であればご承知のように、合理主義者というものは、人が有限な存在であることを簡単に忘れて、「限られた能力で理想を追求することが人の価値を高める」などと、聞こえはいいがしょせんは昭和スポ根でしかない脳筋の発想で人々を駆り立てたり、戦争に駆り出す人でなしである。たいてい、理想と現実、理論と実践といった二項対立が強力である理由を過小評価して、二項のどちらかを過大評価するのが未熟な人間の典型である。それを、サイコパス学者の美談などとして描いてきたメディアは多いが、僕らのような社会科学のまともな素養がある人間であれば、どう考えても社会政策や社会思想の根幹は「凡人」であって、凡人を基準にモデルを考案し、凡人に適用した政策や法を establish することが目標であるはずなのに、自分が東大教授様になったとか、新潮社からベストセラーを出したとか、あるいは岩波書店から著作集を発行したといった、くだらない理由で即座にそういう社会科学の基本を忘れてしまい、この宇宙は東大暗記小僧や都内のインチキベンチャーや国家官僚のパターナリズムを満足させるためだけに存在すると言わんばかりの主張を始める。これがリバタリアンや合理主義者という連中に関する僕の「臨床」である。つまり、僕に言わせればリバタリアニズムや合理主義者というのは、単なる異常でしかない。いつも言うように、僕は思想や哲学に優劣や是非の区別などしないが、それを掲げる人間には正常と異常の区別があると信じている。そして、それを厳格に当てはめるだけで構築するのが本当の権威主義というものだ。