Scribble at 2023-10-09 13:58:23 Last modified: unmodified

人文系の記事やエッセイを毎日のように探してきては紹介してくれる Arts & Letters Daily というサイトがあって、もう運営が始まって25年にもなるという。ただし、ここ最近はリンク先が paywall になってることも多いので、あまり熱心にはアクセスしなくなった。そんなもん、記事を読もうとするたびに subscription なんて払ってはいられないからだ。だいたい海外のオンライン・ジャーナルや新聞サイトだと、net value としてキャッシュ・フローへのインパクトが小さい(ややこしい書き方をしているが、つまりは一度に支払う金額が少ないということ)場合でも1週間で $3 とか $4 といった出費になる。それに、$3 という net value が大して高額ではないとしても、記事を1本だけ読むために、一時的に subscribe して即座に止めるなんて面倒臭いことはやっていられない。いや、それ以前にサイトへのユーザ登録の手続きも必要となるから、更に面倒な話である。

もちろん、面倒が少ないとしても出費は大きなテーマだ。記事を読むたびに日本円で500円ずつ払っていたのでは、いったい1ヶ月に幾らの出費になるのやら不安にもなる。無論だが、ごくありふれた所得のサラリーマンにとって、たかだか1本の英文記事を500円ずつ購入して読むなんてことは、それだけのコストに値する内容の記事だとしても、過剰な負担というものであろう。そして、たいていはコストに見合うだけの内容であるかどうかを事前に判断するなんてことはできないわけである。それゆえ、こういう判断にはブランドとか信用とか、あるいは権威というものが強く関わる。是非の議論はあるとしても、こういう影響関係があるという事実を無視して空論を弄んでいるだけでは哲学者にすら笑われよう。

ありていに言って、なるべく多くの情報を参考にしてものを考えたり判断するべきであるという一般論や原則は、それがアクセス可能な全ての情報を手にしているというありえない前提の上で語られている限りは、およそ現実的でも実現可能でもない(Google のエンジニアですら「全ての情報」を読んで理解などしていない)。また、仮に全ての情報を手にしていたと仮定しても、そこから正しい結論が出てくる保証もない。なぜなら、ここ最近の大規模言語モデルを利用した結果として起きている多くのトラブルでも分かるように、正しい理解力や思考力を欠いたまま情報なりデータだけ増えても、何ら正しい推論や議論はできないからだ。また、現実には「多くの情報」とは言っても、せいぜい検索結果の上位から何番めまでのページにアクセスして記事を読むといった素人のやることに客観性や正確さなどない。それこそ検索エンジン企業の誘導する情報をかき集めているだけのロボットと同じである。また、それらが知りうる限りで全ての情報だったとしても(もちろん、検索結果だけではなく図書館で調べ上げた情報なども含まれるとして)、そこから正しい結論が出てくる保証もないわけである。

すると、少し(あるいはかなり)譲歩して best から better に目標を後退させるとして、それがどういう目標や尺度に照らして、どのていどの譲歩や妥協になるのかという評価とか判定を、どうやって下せるのだろうか。ここでもまた、読売新聞は読んでいても産経新聞は読んでいない人が、いったい何かを判断するにあたってどれくらいの間違いを犯すリスクをどのていど抱えるのかという厳密な予測ができる理論なんて、この世に存在しないであろう。結局、われわれには何も確かなことは分からないのであって、「たくさん知ってたら、いいな」という子供じみた願望があるだけだ。そして、こんな願望にすがりつこうとするような精神性をおろかで軽薄だと思うからこそ、僕は例の「編集工学」おじさんのような乱読や多読によって語るだけの空疎な蘊蓄など思想でもなんでも無いと喝破しているわけである。

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