Scribble at 2024-12-14 08:32:45 Last modified: unmodified

いわゆる究極の問いと呼ばれる "why there is something rather than nothing?" について考える、という状況を考えていると、これは科学者は考えない問いであるという。宇宙は存在することによって考えたり認識できるし科学の研究もできる。真空やエネルギーのように見えないどころか、「ない」ことを考えるのは、端的に言えばナンセンスでしかない。そこ(とすら指し示したり想像できないわけだが)には因果関係なり何らかの相互作用が可能な何の要素もないのだから、そもそも科学は関与しないし、してもしょうがないというわけである。

しかしながら、たとえばビッグ・バンは「どうして」起きたのかとか、宇宙が終わった後に「何が」起きるのかといったことを考えたくなるのは、少なくとも時間という尺度でものごとを認識し、そして時間を無限に伸びる数直線としてイメージしていることが多い我々の認知構造においては、双方の「更に先へ」思いを馳せるのは仕方のないことでもあろう。どうしても、多くの人はビッグ・バングを数直線上の或る一点として捉えようとするので、その点から左の時点では何が起きていたのかと問いたくはなろう。もし「その点から左は、そもそも数直線で表せるようなことがない」と言われて線の端を切り落とされたとしても、やはり人の想像は切り落とされた端から左側に向かって何かが起きていた(線が続いていた)かのように思いたくなるかもしれない。そして、それはもう一方の端である宇宙の終焉についても同じことが言える(宇宙が再び収縮へ向かうのではなく熱力学的な「死」を迎えるという予想を仮定するとして)。

僕が思うに、多くの人々(その中には哲学のプロパーも含まれるであろう)とは違って、哲学と宗教とが違う知的営為だと考えられる一つの理由は、まさにその想像をするかどうかにあると言いたい。

そして、僕が自らの研究スタンスを「科学哲学」と称しているのは、何も論理実証主義に始まる云々という教科書的な経緯に身を委ねているからではなく、もう少し表現を替えるなら「科学でもあり哲学でもあるようなことをしている」からなのだ(当サイトで掲載している「ストリート・ファイト」を始めたくなる人、つまり、こういうことを書いている者に、「科学もしてる? 東大の理学博士すらもってないバカが?」などと言いたくなる小僧がいるのは知ってるが、ひとまずお前ら無能は黙ってろ)。したがって、場合によっては「科学的な哲学 (scientific philosophy)」という言い方も使うが、そこでは「哲学的な科学 (philosophical science)」というニュアンスも合わせた二つの意味合いの一つとして言っている。そして、これはしばしば見識の足りない(と僕には思える)科学哲学のプロパーが、科学哲学について「科学と哲学の融合」だとか「科学と哲学の中間」といった、僕からすれば思慮の浅いマスコミ表現(つまり、バカ専用ということ)を使って、あたかも科学哲学が掛け合い漫才も同然のお喋りであるかのように説明することもある。だが、そんなことをいつまでも言ってるような無能のプロパーも、いい加減に黙ってろと言いたい気分はある。そんなことをこれから数千年と書いたり喋り続けたところで、啓発的・教育的な意味どころか、そう喋っている当人にとっての哲学的な意義すらあるまい。ということは、僕が当サイトで繰り返して述べているように、それは自らの認知能力や言語運用能力によって自分自身を錯覚に落とし入れている自己欺瞞にすぎないのである。

ということなので、僕が思うには、世界や存在の根拠を語ろうとするのが宗教であり、少なくとも僕の理解では科学だけでなく哲学も、これを語ろうとするものではない。しばしば、哲学も世界の根拠について語ろうとするものなのだと思っている人の中に、科学は実証的あるいは数理的にしか認識できないからこそ世界の根拠を語れないのだが、それに比べて哲学は「概念的」あるいは「論理的」に世界の根拠を思索の対象にできるから語れるのだと主張する人はいる。僕には、世界の根拠は概念的に考えられるものなのだと誰かが口で言っているまさにその状況こそ、果たして当人が厳密かつ正確に何を思考しているのか理解不能であるからして、言っていることがよくわからないのである。これは、以前から述べている通り、僕が cognitive closure 仮説の支持者であるということも理由の一つだ。僕は世界の根拠(と表現できて皆さんに何事かを伝えられているということも、或る種の思い込みに近いのではないかと思うが)なるものがヒトの認知能力の範囲で分かるという前提が、まさしくヒトの認知能力の範囲でどう正当化できるのか分からないので、もちろんどういうわけか世界が anthropically fine-tuned されていて分かってしまうのだと思いたくなるのも無理からぬことだとは思うが、それはどう考えても哲学という学問においてセカイ系の幼稚な批評を弄んでいるのと同じであろう。あるいは、まさしく先に述べた通り、「誰か・何か」が我々に分かるように世界をわざわざ作り給うた(逆に、世界を理解できるように我々を作り給うたと言い換えてもいい。どのみち僕にとっては笑えない冗談でしかないからだ)という、宗教というものだ。

さて次に、哲学のプロパーには、そういうスタンス、つまり哲学と科学とはどちらも世界の根拠について思考しないものであるという制約なり自意識を踏まえていることに腹を立てる人がいて、そういうスタンスを半ば毛嫌いするような人物がいるものらしい。つまり、世界の根拠を問えないという限界が哲学にあることは許し難く、そこにおいて世界の根拠を語ろうとする宗教に「負けてはいけない」のだとか、あるいは世界について科学と恣意の範囲や歩調を同じくすることは「実証的な態度への後退」であるとか「負け」であるといった、かなり子供じみた自意識で学問にしがみついているような人物がいるわけだ。もちろん、実際にはもっと堅苦しい漢字や外来語などの複雑な表現を使って論じるのであろうが、言っていることは要するにこれと同じである。

だが、僕にとっては哲学と科学とを比べたり、あるいは並べて、どちらが偉いのどうのと馬鹿げた議論をしたり比較すること自体が哲学的に言って無意味であるからして、それが科学であろうと哲学であろうと、世界の根拠を問うことについて、少なくともヒトの認知能力の範囲で言えると自ら判断しうる基準を超えないことに学問としての価値があると思うのだ。要するに、それは科学であろうと哲学であろうと、僕にとってはヒトの営みであるという点では変わりがないからだ。そういう自覚なしに思惟することは、簡単に言えば自分が神にでもなったかのような錯覚をしているのと同じである。そして、宗教とはまさしくそのような錯覚のマインド・セットだと言えるであろう。だが、僕に言わせれば、それは自己欺瞞なのである。

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