Scribble at 2022-11-27 23:04:47 Last modified: 2022-11-27 23:10:40

僕は大して興味のない人たちなのだが、バーナード・ショウとかギルバート・チェスタトンとかコリン・ウィルソンといった人々、つまり主にイギリス圏で活躍した作家というのは、日本の保守と呼ばれている物書きがお気に入りとしているらしい。確かに、日本の通俗的な有名人としての保守の論客にイギリス文学の研究者が多いという事情もあるのだろう。そして、彼らに共通するのが共産主義(者)嫌いである。でも、その反面でファシストという点ではクルクルパーの教条主義的な共産主義者と多くが一致しており、したがって日本の文壇という出版業界の人間関係や利害関係だけで権威を維持している、御大層に「思想家」を名乗りながらすっとこどっこいとバカ踊りを踊っているだけの連中もまた、そういう点で右だろうと左だろうと同じように一致しているわけだ。

僕は当サイトで擬制としての権威主義を支持すると書いているけれど、もちろん人の考えたり為すことに無謬性などないわけであり、僕が是とする権威は改訂可能で更新可能な権威でしかありえない。だが、ファシストの掲げる国だの精神だの美しい日本だのという、口先だけの安っぽい観念にしても、まさか大学でいっぱしの学問を講じつつ、それらの玩具みたいなキーワードを弄ぶ人々が、それらを更新(あるいは棄却)不能な真理であるとまで断言するほどのあほうではあるまい。すると、原理的に更新しうるという点では、僕のような哲学者が掲げるアイデアとも、口先だけの類似点がある。だから、「商業保守」や「自意識プレイ保守」といった紛い物どもと一緒にされないためには、もう少し堅実な議論が必要だろうし、もし可能であれば別の言葉で表現した方がいいかもしれない。

ともあれ、左翼嫌いのイギリス人が暇潰しに書き殴ったような評論を押し戴く連中と一緒にされては困る。これは来年の課題としたい。

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