Scribble at 2024-03-27 23:20:27 Last modified: unmodified

自然というものはヒトなんていう矮小でつまらない生物種の価値観なんて知ったことではない(もちろん「知る」なんて表現そのものがカテゴリー・ミステイクだし、単純なコロケーションの違和感すら疑ってもいい)わけなので、僕は高校生くらいの頃から現代社会とか世界史の教科書に出てくる「自然権」というアイデアが胡散臭いとしか思えなかった。要するに、擬制、しかも西洋の宗教的な脈絡でしか正当化できないような擬制ではないかというわけである。

このところ、権利には義務が伴うといった考えについて、生存権のような権利には義務が伴わないなどと分かったふうなことを言う弁護士とか法律学者がいるわけだけど、こういう人々の方が権利、いわんや法というものを分かっていない。我々自身が道徳とか法とか制度というものを擬制だろうとなんだろうと運用して維持しているということ自体が「不自然な」ことでしかないからだ。

たとえば、僕はウェブの技術者やデザイナーとして「アクセシビリティ」というアイデアにいくらかコミットして仕事をしているという自負はあるけれど、これなんかも障害者がウェブ・コンテンツにアクセスして十分な情報を利用できるように整備したり、あるいは "accessibility by design" といったように設計段階で何らかの合理的な配慮をするというのは、障害者に「自然権」があるからでもなければ、アクセシビリティが無条件の権利として求められるからでもない。これは、僕に言わせれば社会防衛なりリスクへの対策なのである。アクセシビリティやユニバーサル・デザインを推進しておけば、仮に自分自身が何かの病気や事故で障害を負ったときに役立つ。それは、誰にでも想定できるリスクだし、社会全体の防衛を考えたら推奨するべきことなのだ。何も、僕らが善良だったり正義の人だったり「やさしぃ(女子高生風)」からアクセシビリティを推進するわけではないのだ。

寧ろ、こういうことに自然権とか正義とか「優しさ」なんてものを持ち込んで振り回す連中の方が、実は無知無教養で傲慢なクズ左翼だったりするから始末が悪い。自分たちでは、世のため人のためだと思っていれば何をやったり言っても許されると思っている。そういう意味ではネトウヨと原理的には同じ思考なのである。

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