Scribble at 2026-03-28 01:49:57 Last modified: unmodified

読書のしかたは色々と言う人がいるし、それぞれ実体験として納得できる意見も多々あるので、どれか一つのやり方が誰に対しても、常に、どういう本を手にしていようと正しいなどということはありえない。それは、もちろん唯一の正解を見出すには至らない水準の経験なり学術研究の成果しか蓄積されていないという可能性ゆえかもしれないが、僕は寧ろこれから何年が過ぎようと唯一の正しい読書法など見つからないと思っている。それはつまり、唯一の正しい読書法は「原理的に」存在しえないということだ。

たとえば単純な事例を見ても、いわゆる「精読」と「通読」とを比較すれば、一段落ごとにノートを取って批評的な読み方の問いや視点を投げかける、大学の購読授業でよくやるような極めてペースの遅い読み方と、一冊をなるべく中断なしに最初から最後まで読み通してしまうようなペースの速い読み方とでも、どちらが一概に正しいとか適切だとは言えない。まず全体の流れや主要なテーマと著者の意見をつかむために通読することを優先するべきだと言う人もいるし、逆に粗い読み方で先入観を作らないよう最初から着実に正確な理解を積み上げる方がよいと言う人もいるわけで、これらはどちらもそれなりに筋が通っている。

僕の実体験としても、まず最初に通読してから精読したのがプラトンの『テアイテトス』であり、最初に精読してから通読したのがクワインの『ことばと対象』であった。後者は分析哲学の古典であるから、『テアイテトス』と比べて知名度は圧倒的に低いし、はっきり言えば、日本では分析哲学や科学哲学を専攻する修士課程の大学院生ですら、翻訳すら一度も読んだことがないという人もいるくらいだ(特に、同じ「分析系」と呼ばれる分野でも倫理学や生物学の哲学などには、クワインの著作を殆ど読んだことがないという人も多い)。それはともかく、これらの事例で双方の著作にどちらの読み方を選んでいたとしても、それはそれで一定の効用なりリスクなりがあったろうと思える。だが、最初にどちらかの読み方を選択したということだけで、何か決定的に道を違えるかと言えば、そんなことはないだろうと言いたい。それでは、初めてその本を読むチャンスは人生に一度しかないのであるから、誰であろうとやりなおしが二度とできないことになってしまう。それは、それぞれどちらの読み方を最初に選択しようと、それぞれに一定の効用なりリスクがあることをわきまえていれば済むことでしかない。

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