Scribble at 2020-10-09 07:28:14 Last modified: 2020-10-09 07:31:42
この手の記事が典型だと思うのだけど、一見すると歴史について「説明」しているように見えるが、僕らのように小学生の頃から考古学や歴史学の素養を養ってきた人間から見れば、こんな文章は説明になっていない。教科書や通俗書をなぞっただけであり、或るところにお爺さんとお婆さんが住んでいましたと言っているだけである。どうして、そんなところにお爺さんとお婆さんが住んでいたのかという《説明》は全くないのであるから、お爺さんやお婆さんという人物については、結局のところ何も分からない。
そして、何か客観的に過去の事実を(説明ではなくとも、少なくとも)叙述・記述しているように見えても、そういう文章の多くはネタになっている本やら教師の仮定や前提や思い込みを無批判的に継承してしまうものである。よって、素人の書くブログ記事についてもメディア・リテラシーや批判的な読解というものが必要なのであるから、同じ手間をかけるなら学術研究者の書く(イデオロギーや予断があるとしても、それなりに自覚している)文章を読む方が、まだ危険なポイントはつかみやすいのである。何度か書いていることだが、学術に関しては(擬制として、あるいは社会防衛上の方法論としての権威主義という立場から言っても)トリクルダウンという発想が正しいと考えるべきなのであって、特にどちらでもいいなら素人の文章を読むよりも学術研究者の文章を読む方がリスクは少ない。学術的成果の評価には共同体の基準といった《民主的な》価値観がかかわるかもしれないが、学術研究それ自体に民主的なプロセスなど不要である。