Scribble at 2024-01-30 20:53:53 Last modified: unmodified

僕はここ数日の落書きで、素人の思いつきや、未熟な調べ物の範囲だけで気軽に思弁をめぐらせたにすぎない成果を公に書き表すということについて批評してきた。もちろん思想・信条の自由として、何をどう考えようと自由だが、それを他人に向かって言うかどうかについては、確かにそこでも一定の任意性はあるにしても、二つの点で牽制や制約がありうる。一つは、もちろん法令によらずともヘイトを撒き散らしたり名誉毀損に当たる発言だとか、機密や他人の個人情報を公表するような行いは禁じられる。そして第二に、個人の節度の問題として、たかだか素人が勝手な想像を想像として語るならともかく、不見識にも「持説」だの「理論」だのと称している不届きな連中もいる。

それから、このような議論を展開すると別の脈絡で誤解する人がいて、僕が考古学における「現場主義」とか「体験主義」を支持しているかのように錯覚することがある。しかし、僕はこれらも支持していない。学術研究には、原理・原則はあっても「主義」などありえないからだ。その手の観念はイデオロギーと同じく凡庸な知性にこびりつき、当人が自覚もしないまま色々な思考に蔓延していく。しかるべき根拠があれば、改定したり、場合によっては破棄してもよいとされる原則を守って研究する態度と、そのような妄想や臆見に凝り固まった態度とでは、およそ学術研究に当たって雲泥の差があろう。そもそも体験主義などと言ったところで、古墳を全く見たこともない人物が古墳の測量図だけであれこれと論じたところで、そんなレベルの思弁や想像など半世紀以上も前に出尽くしているのだ。そして、まともな研究者であれば、仮説としての理論と発掘調査などから得た情報とをどちらも有効に活用して研究を進めるのが当たり前であると弁えており、それが学術研究者としてのコア・コンピタンシーなのである。逆に言えば、現地説明会めぐりばかりしている人や、図書館で本ばかり読んでいるのは、はっきり言えば典型的な素人であり、アマチュアのレベルにすら及ばない人だ。

とは言え、昨今はどうも様子が変わってきているらしい。昨年に出版された Archaeological Situations: Archaeological Theory from the Inside Out (Gavin Lucas, Routlege, 2023) という著作では、昨今の考古学の学生は理論を嫌うどころか理論について無関心になっているという話が書かれていて、僕はこれは由々しきことだと思う。正直、日本の愚劣なアマチュアが話題にしているような、やれ邪馬台国がどうのとか、何々天皇がどうとか、そんな話は本当のところ考古学の主要な使命にとっては些事である。それはちょうど、日本の後期高齢者医療制度を研究するために、日本の首都がどこであるかという事実が殆ど関係ないのと同じことなのである。

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