Scribble at 2024-06-11 16:58:17 Last modified: 2024-06-11 17:09:43

僕は、「障害」というものは各人つまり当人と外部環境とのあいだにある(あるいは生じる)特定の状況のことだと思っている。

たとえば視覚「障害」というのは、当人が何かを見なくては分からないような状況にあって起きることだと言えるので、その人が寝ているときに「障害」をどうこう考えたり言う必要はない。われわれのように視覚的な「障害」が生じるチャンスのない人と何も変わらないわけである。いや、もちろん僕だってドライアイだとか老眼という事情で、辞書を読むといった特定の状況ではものが見え辛くなったり、ドライアイは眩しくて目が何秒も開けていられなくなるときがあるから、そもそも何かを見るということが出来なくなったりする。したがって、こういう意味での「障害」は誰にでも起きるし、常に起きるとは限らないのであって、これまで視覚障害者と言われてきた人たちについても、常に何かが見えなくて辛いわけでもない。吃音や失語症の場合でも、確かに何かを相手に言おうとしてうまく言えないという苦痛を感じる状況で、その人達は「障害」を被っているとは言えるけれど、一人で部屋の中で読書しているときに苦痛を感じることは少ないだろう(吃音の人々が黙読、あるいは一人でやる暗唱でも吃るのかどうかは分からないが)。また、両足を切断している人であっても、どこかへ移動するという状況で大きな苦痛を感じたり不自由さを感じることはあろうが、寝ているときに同じような苦痛を感じるとは思えない。

ただ、僕が述べている議論は、特殊な状況で「障害」に見舞われる人々に向かって、一人で部屋にいれば苦痛を感じないから外へ出てくるな、などと言うような、リバタリアンやネトウヨの議論とは違う。もちろん、そんなクズ議論などに耳を貸す必要などなく、誰であろうと好き勝手に外へ出ればいい。ただ、彼らが遭遇する「障害」という特殊な状況は、他の人々が遭遇する状況よりも色々な点で深刻な結果を招くリスクが高かったり、特殊な状況に見舞われる頻度がそもそも多いという可能性はあろう。したがって、UD という発想も考慮して、そういう「障害」が生じるリスクをできるだけ減らしていることが望ましく、そしてそれは僕らのように「障害者」ではない多くの人々にとっても有益なはずなのである。

そして、このように考えると、「障害」という特殊な状況は「差別」として考えられている他の状況にも当てはめられるだろう。たとえば、大学へ進学したい若者(特に女子)が、親に「女なんて科学哲学を勉強する必要はない」などと言われて学ぶ機会を奪われるといったケースが相当する。あるいは、多くのイスラム圏で女性が高等教育を受けられない理由として、体制側の「男ども」は教義だの文化だのと言っているわけだが、それも僕に言わせれば女性が外へ出て教育を受ける場合に見舞われる「障害」だと言える。保守の人間として言うが、そんなもん、伝統や文化なわけがあるか。

もちろん、好き勝手なことができないからといって、なんでもかんでも「障害」だ「差別」だと言えば済むわけではない。勉強もしてないやつが「俺が東大に入れないのは『障害』だ」などと言ってみたり、中学しか出ていない人物が「俺が財務省の官僚になれないのは『差別』だ」などと言ってみたところで、それに対応するのは単なる社会の混乱でしかない。気の毒ながら、僕は差別や障害について進んだ対策や人々の考え方を求めたいと願っているが、しかし同時に権威主義者でもあり、一定の権威を無視したり軽視する短絡的な平等は認めない。よって、中卒の人間が財務省の官僚になることは世の中を混乱させるだけだと思うし、勉強しないやつが東大に入る資格はないと思う。

やはり、こういう議論がなかなか普及したり進展しない一つの理由として、家庭でも学校でも職場でも、あるいはこうした個人のブログやサイトでも、自分としては「差別」や「障害」とはこういうことだと思うという意見の表明をすること自体に深刻なリスクがあると考える(思い込む)人が多いという事情があるのだろう。差別とはなんだろうかと思って意見を書くとして、翌日から迷惑電話が大量に鳴るとか、どこかへ連れて行かれて自己批判だの何のと吊るし上げられるとか、あるいは SNS で黒瀬某だ構成作家だ元日テレの右翼お婆ちゃんにメンションで文句を言われたり、もしかすると住所を特定されるかもしれない。左だろうと右だろうと、とにかく SNS にたむろしているクズどもというのは、やることが悪質でありながらイージーで、最近は指先一つで他人の人生を狂わせられる。とても政治や社会問題について公には語れない。そうすると、どこかで公に繋がっている可能性があれば私的な場所でも憚られるようになる。自分の意見を、懇親会などで聞いた部下が X で書くかもしれないし、もちろん大企業になると東芝の有名なスパイ社員の親睦会である「扇会」などのように、どこで誰が何を聞いていたり調べているか、わかったものではない。こうした社内のスパイ組織は、たいていの大企業や上場企業には二つあって、一つは経営・人事側、そしてもう一つが組合側だ。これに加えて、先端技術のメーカには、たいてい中国や北朝鮮の産業スパイが何人かいるであろう。しかし、こうした愚劣な連中を過度に恐れてしまうと、アナウンス効果のように彼らが期待するとおりの国家や社会になってしまう。そこへの道を、少なくとも哲学者を自ら任じており、しかも保守を名乗っている者が自分で舗装するなど、断じて容認できない。繰り返すが、僕は人類史スケールで基準や理想を考えている保守思想家であり権威主義者なので、ネトウヨやリバタリアンやネオコンやネオリベや文化左翼といった、くだらない小手先の利益だとか自意識や願望のために制度や世の中を差配しようなどというクズどもに国は委ねられないと思っている。

いずれにしても、不遜な言い方にはなるが、「差別」や「障害」は障害を抱えたり差別を受けている人々だけの話ではなく、われわれ通常は関わりがないと思いこんでいるような者にとっても、条件しだいでは重大で切実な状況として関わりが生じると思う。よって、広告代理店のコピー・ライターみたいだが、「ぼくらのテーマ」でもあるのだ。それは、何も明日や明後日に交通事故で下半身が麻痺するかもしれないという理由で言っているわけではなく、僕らがいままでと同じ生活を送っている中にも、状況によっては「障害」や「差別」の場面として捉えて良いケースがあるという意味だ。つまり、障害や差別という状況は、誰にでもありえるのだ。僕らが差別する側になったり、差別される側になったりするという意味でも、それから何らかの障害という状況に入ってしまうこともある。障害を負っていようといまいと、それから差別を助長したり無視している側であろうと差別されている側であろうと、いずれにしても他人の生活し生きている姿への想像力が求められると思う。

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