Scribble at 2026-08-22 19:46:40 Last modified: 2026-08-22 20:49:33

僕がどうして「読書家」と呼ばれたり自称する愚劣な連中をたびたび罵倒しているかというと、学識や理解を成果として立証したり、あるいは本当に読んだのかどうかすら立証しないくせに、何か読書家と名乗るだけで知識人や文化人の一種として特別な立場を得たかのような自己欺瞞に陥る人たちだらけだからだ。「おたく」と言うだけで何かの専門家という立場を得たかのような自己欺瞞に陥るのと同じで、つまるところ企業や大学で一定期間のしかるべき基準を満たす訓練や試験を受けずに学者や知識人の仲間みたいなものになりたいというグロテスクな欲望しか見受けられない連中というわけだ。実際、こういう人たちからは、知識や学問や勉強というものに対する熱意も尊敬も感じられないのである。そして、この手の読書家どもによくあるパターンが、短絡的な判官びいきを自説どころか学術的な定説であるかのように語る虚言癖とか、馬鹿げた陰謀論を示して自分が事の真実を知っていると称する妄想癖だ。

たとえば、『オシェン』という18世紀に創作されたケルトの伝承物語を例として取り上げると、20世紀以降のケルト文献学やゲール語テクストの比較検証から、この作品を発表したジェームズ・マクファーソンがスコットランドで収集したわずかな口承断片を土台にしつつも、作品の構成、語彙、そして思想的枠組みの大部分は彼自身による18世紀的な創作(擬古作)であるという結論は、既に国際的な比較文学・文献学研究において確立している定説だ(もちろん、そのうえで『オシェン』を優れた文学作品だと高く評価してもよい)。つまり、既に海外の学術研究においてはマクファーソンの編纂や創作が作品の大半を占めていることが定説となっているのに、日本ではいまだに「スコットランドの文化を高く評価されては困るイングランドの陰謀によって、真価が過小評価されたり否定されている」というホラ話が延々と不勉強な読書家どものブログ記事などに書かれ続けている。

これは、『オシェン』を日本語で読める唯一の翻訳である岩波文庫の訳者が、マクファーソンの創作が大半を占めるという1950年代には確立していた定説を軽視して、「そんなはずがない」などという軽率な擁護を書いたことが決定的な悪影響を残している。大学院を出ている人なら知っているように、読書家と呼ばれる人々がブログや雑誌などに書いている文章の大半を見れば、彼らが殆ど日本語で書かれている本やブログ記事や雑誌しか読んでおらず、日本の学術雑誌すら調べずにものを書いていることは明白だ。したがって、岩波から出ている本しか読めるものがなければ、そこに書かれている批評をスタンダードな評価として無批判に受け入れてしまうのは仕方のないことであろう。読書家なんて何千冊の本を読んでいようと頭の中は三流大学の学部生と大差ないからだ(或るシステムが膨大なデータ量をもつだけでは、そのシステムに知性があることにはならないという事実は、みなさんが昨今の生成 AI を使って実感しているであろう!)。

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