Scribble at 2026-02-20 13:52:22 Last modified: unmodified
PHILSCI.INFO の落書きでご紹介した、ユドコウスキーとビグリウーチの対談について、ついでに僕自身の立場をはっきり言っておくと、まぁたいていの方は僕の立場には興味ないと思うが、取り上げている話題には興味があるだろうし・・・まず、人の知性とか意識がソフトウェア「である」とか、あるいは数学的に表現しうる何らかの図式「である」という主張は意味を為していないと考える。古臭い言い方を使うなら、カテゴリー・ミステイクというやつだ。書店に山ほど並んでいる、科学ライターやインチキ啓蒙家の手掛けるイージーな通俗本や御伽噺の類なら勝手に読んで面白がっておけばよいが、科学哲学ではそうはいかない。それらをそもそも比較可能であると考えること自体が、マスコミや通俗物書きどもの手掛けるガラクタ本の「ユーザ」としてものを考えている証拠でもあろう。そもそも、それらを比較したりアナロジーで結びつけて語りうるような「立場」や「視座」なんてものはないのだ。そういうものがあると妄想するのは、あなたがたが非常に質の悪い哲学の駄本を読んでいるか、あるいは無能な人間に哲学を習った証拠だと思う。そういうわけで、僕は基本的にピグリウーチと同じスタンスである。
この対談で取り上げられている幾つかの話題に共通する論点は、おそらく "multiple realizability" と呼ばれている概念だ。そして、これは既に PHILSCI.INFO で論じたことなのだが、僕はこの "multiple realizability" という概念が(少なくともヒトの意識や「心」についての概念だと限定すれば)、そもそも整合的あるいは説得力をもって理解可能な概念として成立「しない」と考えており、したがってこれに関わる議論の多くはアンカリングの過ち、つまり「ない」ものについてあれこれと議論するという間違いをおかしていると判断している。こういう場合にしばしば持ち出される話なのだが、ウィトゲンシュタインが言ったように、言葉あるいは概念の迷宮で道を間違えるのは、何も素人だけではなく、実際には哲学の研究者も出口のない方へ hype-driven に殺到したり(昨今の軽薄で、根本的に愚劣な「哲学の本」の数々を見れば分かるだろう)、あるいは堂々巡りをするものだ。もちろん、僕らもその例外ではない。