Scribble at 2022-03-15 10:07:15 Last modified: 2022-03-15 12:33:27

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賢い質問のしかた

エリック・レイモンドの "How To Ask Questions The Smart Way"(http://www.catb.org/~esr/faqs/smart-questions.html)は、他の文書も含めて技術者なり IT ウェブ関連のミームが大好きなジャーナリストには広く知られているため、他にもたくさん翻訳があるのかと思っていた。たとえば、山形浩生氏とかも訳文を公表していてもおかしくないと思ったのだが、上記の佐藤研太郎氏による翻訳だけが公開されているようだ。もちろん、エリックのサイトでは翻訳にかかわる許諾の特別な注意書きがあって、誰でも随意に翻訳して文書を公表はできる。

こういう場合に、哲学の古典の翻訳などでも言えることだと思うが、改訳したり自分なりの表現で訳文を公表する、なかんずくローカル・マシンだけであれ自分自身で翻訳してみるという作業には、どういう意味があるだろうか。まず、効用があるとは限らない。英語や翻訳の勉強でもしてるならともかく、個人が、何が書かれているかという主旨を手っ取り早く理解するためだけに、既存の訳文ではなく原文を単に英語として読むどころか翻訳までする意味、というか少なくとも必要はないだろう。誰が翻訳したのであれ、他人の翻訳が最初から当てにできないという思い込みを持つのは勝手だが、そこまで自信があるなら、そもそも翻訳などせずに原文だけ読んでいればいいはずだからだ。自分が生きるために必要な知見や情報を得るというだけのことなら、はっきり言って翻訳という作業は時間の浪費であろう。そんなことをして〈日本語に翻訳する作業を通してしか理解できない内容〉があるというなら、そもそもその人は英語として全く理解できていない筈だからだ(そして英語としてすら理解できていない人間に、適切な翻訳などできるわけがない)。

よって、既存の翻訳を読んだうえで何らかの不満を感じて、そのままにしておくと原著者の「意図」や「真意」が読む人に伝わらないという(思い込みも含めて)理由で alternative をつくって公表しようという人がいるのだろう。科学哲学でも、著作権や翻訳権にかかわる(それなりに高額な)コストの問題さえなければ、 Kuhn や Losee や Putnam の有名な、一部では誤訳ならぬ「愚訳」とすら言われたことがある劣悪な翻訳を自主的に置き換えようとする意欲くらいもっているプロパーが、おそらく少しはいると期待したい。

しかし、前段で「(思い込みも含めて)」と書いたように、改訳が既存の翻訳よりも「優れている」とは限らない。第一に、改訳において新しい誤訳が生じるリスクがあるし、第二に、改訳で使う表現がその時の読者にとって相応しい言葉の選択だとも限らないという歴史的な問題もあり、そして第三に、選択した表現が歴史的な条件だけではなく読み手の素養とか社会階層などという条件によっても不適切となる可能性がある。また、文法の扱いが間違っているという点を直すにしても、実際のところ学術的に意見が分かれる場合もあるため、一概に間違いだとも限らない表現だってある。

こういう場合に、色々と問題やリスクはあっても複数の翻訳が出回る方が「多様性」があって良いという見方はあろう。翻訳そのものの問題だけではなく、読み手の素養によっても言葉の選択には制約があるからといって、馬鹿が誤読することを避けたいなどと思ってみても、大半の国は本を読むにあたって資格を要求するなどというファシズムが通用する社会ではない。

確かに日本の幕末などを詳しく調べると、しょせんは漢籍や仏典の未熟な理解や人生経験や渡航歴だけで噴き上がった若造による安易な人殺しが横行した下らない時代だったと言えなくもない。が、学術や思想にかかわるからといって、一定の素養を要求するだけで〈相応しい者〉だけが読んで活用するはずだと思い込むのは、社会科学的な観点から言っても、あるいは単に社会人としての常識で考えても愚かな話であろう(なお、これは訳文の話ではないが、誰が読むとも限らないと正しく想定していても、それゆえか、特定の者にしか分からない奇妙な造語を山ほど自著に盛り込む廣松某のような著述のスタイルも逆の意味で愚行だと思う。それこそ、たかだか漢字の熟語を工夫するだけで〈意味〉を字面に固定できるとでも思いこむ、言語哲学におけるブードゥー教みたいなものだ)。

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