Scribble at 2026-05-18 13:27:48 Last modified: unmodified

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There Is No ‘Hard Problem Of Consciousness’

デイヴィッド・チャマーズが提唱した、脳の物理的なプロセスと主観的な体験との間に「説明のギャップ」が存在するという「意識のハード・プロブレム」に対して物理学者のロヴェッリは、そんなギャップは存在しないと明言する。意識が未解明であるのは、雷雨の予測やタンパク質の折りたたみ構造の解明が難しいのと全く同じ理由によるものであり、現象として非常に複雑だからにすぎないのであって、なにか自然界の物理法則から外れた(あるいは物理法則として解析しえない)神秘的な何かが起きている証拠にはならないと語っている。当サイト(というか旧 PHILSCI.INFO)では何度か書いているので、さほど目新しい話題ではないのだが、僕もロヴェリに賛成だ。

で、ロヴェリは科学が提示する客観的な三人称の視点と、私たちの主観的な一人称の視点とを完全に切り離して捉えようとする二元論的なアプローチそのものが初期設定の段階で誤っていると批判している。僕らは世界を外側から観察している絶対的な存在ではなく、世界の内側の一部として身体化された範囲の認知能力によって知識や理論を構築しているため、あらゆる認識は本質的に知識や視点に依存している。したがって、クオリアや主観性というものは、世界のただなかにおいて活動している脳の物理的な現象を「その脳自身が内側から経験するか」、あるいは「外部の観察者が外側から捉えるか」という視点の違いを反映しているだけであって、そこに形而上学的な断絶を求める必要はないと考えている。これも、まったく同感だ。つまり、意識に何か「ハードな」問題があるとすれば、それはせいぜい、僕らの自意識が活動している様子を僕ら自身が脳みそを開いて眺めたりできないという実務的な問題であったり、あるいは「ああ、この部位のここで起きているね」などと特定できていないという自然科学が解明しうるレベルの事柄として未解明であるという理論的な問題のことだと言える。科学哲学者としても言うが、それ以外の問題なんてないのだ。よって、この手の話を通俗的な本でこねくり回しているだけの、日本の通俗物書きどもの本は、哲学の入門書としてはゴミみたいなものだと言っていい。なぜなら、本を書いている当人が客観と主観という哲学の基本的な概念すら正しく理解していない、学部レベルにも満たない無能だからだ。せめて少しでも誠実さがあるなら、こういうカスみたいな哲学の本を書きまくってるお前たち都内の編集者やインチキ物書きは、偏差値60ていどの地方大学にでも入って勉強しなおすことをお勧めするね。

さて、意識についてのデタラメな理解によって、チャーマーズには哲学研究者の多くを数十年にわたる与太話へ引き込んだ責任があるとは言え、カルナップの研究などでは着目に値する研究をしているので、僕の彼に対する評価は差し引きゼロといったところだ。だが、これに加えて「哲学的ゾンビ」などという輪をかけて下らない話を持ち出す手助けをしたのだから(繰り返すまでもないが、僕は思考実験の多くはご都合主義の前提で議論するための茶番、あるいは論点先取のごまかしだと思っているので、殆ど哲学的な重要性はないと思っている)、それなりに何らかの弁明を期待しているところだ。このしょーもない議論についても、僕はロヴェリと同じく下らないと思う。なぜなら、そもそも哲学的なゾンビとやらは何を欠いているのであろうか。意識? じゃあそれは何なの? 分からない? では、どうして分からないものを最初から僕らは持っているとか、ゾンビは持っていないなどと言えるのだろうか。これだけで、こういう馬鹿げた話が哲学において取り上げる価値のないものであることが、学部生どころか中学生にすら分かるであろう。

ロヴェリは結論として、僕らの精神生活や魂は根本的な物理学と完全に調和するものであるなどと説明する二元論を捨て去るべきだと促している。認識論と存在論とのあいだの循環(この、認識論と存在論の「循環」に見える状況は、PHILSCI.INFO というサイトを立ち上げた最初の頃に書いたことがある)を受け入れ、人間もまたこの世界、つまりは自然の一部であるという現実をありのままに捉えることこそが重要だと論じている。ただし、古臭い唯物論を語っているだけなのかというと、そういうわけではない。なぜなら、ヒトの認知能力に神秘などないという意味では物理主義と言ってよいが、しかしその「物理」とはヒトの認知によって定式化されたり理解されるのであるから、どこか客観的なところにある真理のようなものを獲得すればいいという話ではないからだ。つまり、唯物論も、それをヒトが理解可能な言語などによる定式化として扱うにあたっては、実体とか絶対座標のような神秘主義を乗り越えなくてはならない。かといって、昨今の流行思想である「オブジェクト指向の実在論」といった記号論の焼き直しにすぎないレトリックだけで哲学や認知や世界を語ろうとする人々がやっていることは、ただのマーケティングにすぎないと僕は思う。

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