Scribble at 2025-10-16 19:18:56 Last modified: 2025-10-17 12:08:59
意外かもしれないが、僕は読んだ小説よりも、観たアニメの方が多い。たぶん、僕らが「文壇」という言葉の響きに何らかの権威をかろうじて感じていた最後の世代と思う。なので、小説なり文学、それから文芸評論にも興味があるし、人によって色々な意味でのインパクトがあるだろうとも思う。だが、それは漫画やアニメよりも文学が高尚であるとか、そういった悪い意味でのアカデミズムが理由なのではない。かつて、俳句を「第二芸術」などと評した京大教授のバカがいたけれど、第一だ第二だという以前に、芸術へ序列や優劣を持ち込むこと自体のナンセンスに気づかない受験秀才の成れの果てとは、まさにああした手合だろうと思う。確か著名なフランス文学の研究者だったと思うが、その人物が残した業績なんて、いまや大型書店どころか公共図書館の書庫にすら残っていないであろう。実際、僕が彼の『第二芸術』(講談社学術文庫)を見つけたのは、たまたま難波の古本屋に入ったときだった。
しばしば、今年も京大の教員がノベール賞を受けているので、京大の教員は常識にとらわれない自由な気風や学際的なリベラル・アーツの精神をもっているなどと、輪をかけて愚かなエピゴーネンが吹聴して、京都学派などという拙劣なネトウヨどもをまるで思想家集団のように研究すらしているようだが、そういう役にも立たない暇潰しをしているから人文系の学科は理数系だけでなく世間から馬鹿にされるのだ。そして、人文系の学科が「役に立つ」という基準で研究したり成果を世に問うてはいけないという、これまた馬鹿な思い込みをもつ教員が多いからこそ、日本の人文系は世界レベルの業績を挙げられない、洋書の読書感想文ライターしか育たないのだ。もちろん、その「役に立つ」というのは、暇潰しがどうのとか、郵便局がどうのとか、勉強がどうのとか、そういう愚にもつかない俗書を乱造することではない。
ともあれ、いまや多くの若者にとっては小説を読むよりもアニメを観ている方が多いだろう。それは、第一に自然だからだ。なにせ、アニメ作品の多くは手元のスマートフォンやタブレットで無料で観られる。いちいち(平均すれば)何キロも離れた公共図書館へ行って小説を借りてくるコストこそ、いくら無料で本が借りられるとはいえ、若い人にとっては無駄の極致であろう。それに、誰かが借りていれば読めないというのも致命的だ。ネット・サービスで観るアニメ作品に、誰かが先に観ているから次を予約してくれなんてありえないだろう。
そして、第二に当然でもある。なぜなら、いまや文学には知的な意味でも思想的な意味でも、あるいは情緒や生活感などあらゆる意味においてインパクトは低減してしまっているからだ。そして、それは若者が手軽にアクセスできる「ケータイ小説」や「ラノベ」といった体裁の読み物が普及したり、売上としても急速に増えたことが理由として語られていた時期があった。ちょうど、書店が減っていく元凶としてアマゾンが語られていた時期と同じ頃である。しかし、いまやそれは社会科学や社会評論をやっている人間どころか僕らから見ても嘘であることが明らかだ。日本の書店や文学は、早い話が自滅したのである。ちょうどラノベやアマゾンが若者に普及していった時期と重なっていたせいで、その自滅が急速に進行したのは確かだろうが、たとえラノベやアマゾンがなかったとしても、日本の書店は街から消えていったろうし、文学作品も画廊の絵画ていどの注目しか集めない好事家の蒐集品みたいなものとなっていたであろう。
包み隠さずに言えば、いまや文芸評論よりもアニメ評論の方が多くの人々に「刺さる」議論をしていると思う。それに比べて文学なり文壇と称しているオワコン業界人ときたら、誰の関心も引き付けないのに、毎年のごとく「芥川賞」だの「直木賞」だのとマスコミに宣伝してもらい、あるいは最近だと「本屋大賞」などと X で騒いでもらったり、蛆虫と同じくらいたくさんいる人文系の有名人や学者に、『三体』を始めとする作品を「現代の古典」などと X で投稿させていた。そして、その時期にだけ書店に小説が山積みされるという珍妙なイベントが繰り返されるだけだ。しかし、たいていの令和時代の若者にしてみれば、そんなもんよりも『呪術廻戦』や『チェンソーマン』の最新刊が発売される日付の方を気にしていたであろう。
そして、それが通俗的でイージーな商品だから売れたのだという理解でしか捉えられていない限り、文学だろうと哲学書だろうと多くの人々の手に渡ることはなくなるであろう。このような議論は、日頃から日本の通俗的な哲学の本を「ケツが見えそうな女子高生のイラストを表紙にしているような本」と断罪している僕のスタンスと矛盾しているように見えるかもしれないが、僕は一貫して多くの人々に読まれる本を制作することは商業活動として当然であり、それをプロとして十分に遂行するべきだと思っている。電通を株主にしている中小企業の部長として、あるいは神保町で雑誌の編集者をしていた科学哲学者なんていう経歴の持ち主として、誰がそういう商業出版を否定するものか。当サイトで話題にしている類の通俗本は、テーマが哲学だろうとコンピュータ・サイエンスだろうと社会保障論だろうと、通俗本だからいけないのではなく、通俗本として程度が低いからこそ僕に侮蔑されるのだ。たとえば、NLP を専攻する物書きにファンタジーを書かせたていどで、日本のガキがコンピュータ・サイエンスやオートマトンの勉強を志したり、エンジニアが仕事へ応用できるようになったりはしないのである。(ちなみに、ここで言う "NLP" は自然言語処理のことだ。心理学の或る手法のことではない。)