Scribble at 2024-03-14 18:52:21 Last modified: 2024-03-15 07:33:46

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明確な差別発言や、社会正義に反する言動であればもちろんCM起用にはデメリットも大きいが、そうではない発言の場合、明確な線引きは難しい。

キリン氷結「広告取り下げ」に見る"空気感の変化"

この記事を書いてる西山守という人物も、かなりスペクトラムの「あっち側」にさしかかってるんじゃないのかね。高齢者に集団自決をすすめるような発言が「明確な差別発言」でもなければ「社会正義に反する言動」でもない、アメリカで「助教」をやってる30代の坊やのジョークだとでも?(上記の引用は、要するに高齢者に集団自殺をすすめる発言が「そうでない発言」だという意味になるからだ。)それにしても、どうしてリバタリアンというのは世代論が好きなのか(リバタリアニズムという思想において世代間闘争を煽る必然性はないはず)。リバタリアンが若者へのポピュリズムを利用するという構図で何の利得があるのだろうか。

今回は、要するにキャンセル・カルチャーと言ってもいい経緯で起きた一件だったわけだけど、日本のリバタリアンというのは、池田信夫君やひろゆきやホリエモン、あるいは大阪維新の会を始めとして、昔から小さな政府を推奨したり、それから高齢者福祉の切り捨てを叫んでいるのであって、そういう意味では成田氏の発言なんて一種の予定調和と言ってもいい。たぶん、反感を買うことくらい分かって発言してたはずなんだよね。わかってなきゃ、彼は高齢者は集団自殺したらいいとか言ったらしいから、まぁ遠回しにスペクトラムがどうのとか言わずにアスペルガー症候群を疑えると見做してもいいのだろう。

もちろん、僕は高齢者福祉が「善」であるとか、それからアスペルガー症候群の人は高齢者福祉が「善」であることを理解していないなどと言っているわけではない。そんな前提がないことくらい、別にイェール大学の assistant professor になんてならなくても分かる。ちなみにだが、彼は「助教授」と名乗っているらしいが、assistant professor というのは、日本の大学で言えば僕が神戸大学で携わっていた教務助手(TA: teaching assistant)と准教授のあいだにあるレベルの職種であって、最近は「助教」などと奇っ怪な呼び方があるらしいけれど、ともかくアメリカで professor の下につくのは "associate" professor であり、assistant professor というのは助手レベルの使いっ走りである。

ここではっきり言わせてもらっておくと、僕はキャンセル・カルチャーは異様なことではないと思うし、かつて部落差別に対抗して関連団体などからメディアに要求されたり、あるいはメディアでコードを整備したという経緯があった「言葉狩り」も、その要求の仕方に脅迫なり問題はあったとしても、原則としてそのような要求は異様なことではなかったと思う。言葉の十個や二十個が使えなくなったていどで文学や芸術ができなくなるなどと不平を言うのは、僕のようなレベルのデザイナーに言わせてもらえば、それはその人物が他に言葉を知らないか表現手法を考案できない無能だからにすぎない。その言葉や技法を使うしか表現する方法がないなんていうのは、今度は哲学者として言わせてもらうが、それはただの「言葉の魔術説」や「言霊信仰」にすぎない。自分が慣れ親しんでいる発音や文字と、自分の感情とが偶然に連合している経験があるというだけで、それを「クオリア」などと言って拘泥しているだけの話である。不当な言葉であれば、芸術や文学がどうあろうと捨て去ってもよいのだ。しかし、人はそれでも別の言葉で差別するわけであって、それがどうして再び起きてしまうのかを、差別する方もされる方も考え続けなくてはいけないのである。

同じく、過去の発言を取り上げられて非難されるというのは当たり前である。ただし、その発言について誠実に反省し訂正すれば、一定の条件で「過去にこういうこともあったが反省している」という態度をセットにして理解し、キャンセルの対象外にすればいいだけのことだ。要するに、こいつらリバタリアンはなんにも反省しないからこそ、何度でもほじくり返されてキャンセルされるのであって、これを「行き過ぎたキャンセル・カルチャー」などとインチキ右翼のフジサンケイのように扱うことこそ、差別的な態度を「純朴」あるいは「中庸」や「穏健」であるかのように錯覚させてしまうことになるのだ(よく、Facebook で和服姿の女性アイコンの人物にヘイトを撒き散らす投稿をさせているような手合は、そういう「素朴な感覚をもつ日本女性」という体裁での発言なら気軽な差別発言が軽く扱われてスルーされるという見通しで、そういうアカウントを運営しているのである)。しかし、不当なことは、せめてそれが起きた際には叩き潰すなり反論を明解に述べておくべきなのである。

僕は、差別もまた「文化」だと考えている。それは、文化だから何か伝統工芸や文楽のように「良い」という意味ではなく、人が一定の条件なり経緯で生み出した風習や成果のうちで歪んだものの一つとして「文化」の一種だと言っているだけである。悪いことでも「文化」となりうるのである。そして、僕が奉じている保守思想は、そのような文化を守ることに固執するものではなく、不合理で不当な文化は消滅して構わないし消え去るべきだと言いたい。これが、従来のインチキな保守と僕の考える哲学的な次元での保守思想との違いの一つだと言える。僕の考える保守というのは、人としての生き様における「仁」や「徳」、つまりは物事の道理を守ることに本義があるのであって、しょせんアジアの僻地で暮らしているにすぎない日本人の風習や伝統なんてものは、それが愚かで不合理なものであれば消えて無くなっても構わないという保守である。

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