Scribble at 2024-12-10 11:09:12 Last modified: 2024-12-10 11:36:26

『エピクロス 教説と手紙』(出 隆、岩崎允胤/訳、岩波文庫、1959)の冒頭で、ご存知の方も多いと思うのだが、自らの哲学体系について概要をまとめたという話が出てくる。初学者を対象にした、今で言えば「まとめ記事」とか「哲学用語集」とか、あるいはどこかの教育学者が運営していたブログとか、それとも早稲田で仏教学を専攻していたらしい学生のサイトみたいなものだと言ってもいいのだろう。

ともかく、2,000年以上も前の時代にも、そうした著作を梗概としてまとめる習慣なり教育上の(或る意味では「マーケティング上の」と言ってもいいのだろう)アプローチというものがあって、iPhone すら持っていない時代の人間だからといって学生諸君は彼らを馬鹿にできないものだぞと言いたい。しかし、逆に言えば2,000年前にこういう配慮まで考えていたような人がいたというのに、教育というのは何千年が経とうと大して進展も改善もされていないなと思わざるをえない。それは、古典のつまみ食いみたいなブログしか実績がなさそうなのに政府のなんとか委員に登りつめる教育哲学者が何人いようと関係のない話だし、ビキニ・アーマーを着た幼女を表紙に描いたような哲学入門書が続々と世に現れようと関係のない話であって、要するにバカや凡人は何千年の時を経ても頑固に凡庸であり続けるという、およそあらゆる生物種に共通するとすら言える、皮肉な意味でも「スタンダードな」経緯をたどるものなのだろう。

でも、考えてみれば当然であろう。世代が進むからといって人そのものが善良になったり賢くなるわけではないからだ。どのような生物種であろうと、生まれて環境に投げ込まれたときは常に「初心者」であり素人である。2,000年が経過したからといって、2,000年分の賢い子どもとして生まれるわけでもないし、2,000年分の経験や思慮を重ねた人物として生まれるわけでもない。たぶんいまから2,000年後でも同じことの繰り返しであろう。そうすると、それだけの時間をかけて蓄積した成果を有効に活用しようとすれば、些事を捨てて本質的かつ重要な事項だけを伝えるような教育が有効だろうか。実際、エピクロスは冒頭で、或る重要なことだけを学べば、他のことはその原理原則から導けると言っている。僕は、それは哲学の勉強ではなく哲学史の勉強、もしくは古典の教科書的な祖述を追うだけの勉強でしかないと思うので、そういうことで「哲学」を教えるとか学べると称する人々には、強い疑念を覚える。

或る原理原則を述べた文あるいは一式の文から、無条件に一定の意味をもつ結論が「出てくる」などと言うのは、論理学に無知な人間の言うことである。なぜなら、トートロジーを除けば「無条件に」一定の意味をもつ結論など出てくるわけがないからだ。たとえば、ゲーデルの不完全性定理は人の知性の限界を証明したとかなんとか馬鹿げたフレーズを振り回す無知な人々のように(残念ながら、その中に哲学を大学で教えているような人間が混ざっていたりするわけだが)、自分が理解しているだけのことがらと不完全性定理に関するガラクタみたいな本に書かれた雑な要約から、そういう無知蒙昧な話をこしらえることは出来ても、ゲーデルについて何も語るどころか証明したことにはならない。それは寧ろ、その人物が馬鹿であることを証明するだけである。どれほど大切なメッセージであるかは知らないが、A を述べ立てることによって無条件に B が言えるなどというのは、A に加えて特別の別の仮定や前提がなければ、それは単なる詭弁でしかない。論理学の初等的なテキストには掲載されていると思うが、A ⇒ B という言明が真であるからといって、それは C ⇒ B という別の言明を否定する根拠になどならないし、それどころか ¬ A ⇒ B を否定する根拠にもならない。そしてもっと重要なことは、そこで扱っている A や B といった文が表している事柄が本当に正しかったり真であるのかどうかを論理学は教えてくれないという事実だ。

ということなので、あんちょこのような書き物を読んだだけで著者の思想を逆向きの推理で「復元」できるとは限らないのであって、それこそが実は古典解釈の難しさの理由でもある。なぜなら、長大な分量のある古典的な著作もまた、あんちょこではなくても著者の思考なり思想を「復元」するにあたって十分な推論の前提を与えてくれるとは限らず、追加の仮定や前提がなくてはそういう結論が出てこないはずだと推定するような思考が常に必要となるからだ。そして、哲学研究の実務と言っていいような古典研究は、こうした思考の繰り返しなのであって、単純な幾つかの文からイージーかつ機械的に演繹するだけで多くのテーマについて応用できるような結論が引き出せるといったこととは違うのである。古典の研究というものは、今風に言い換えるなら生成 AI のトレーニングにどういうデータが使われたり、生成 AI の拡散モデルを作るためにどういうアルゴリズムが採用されているのかを、生成されたテキストや画像という限られたリソースだけで推定するような作業なのだ。

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