Scribble at 2023-06-01 17:34:25 Last modified: 2023-06-02 09:30:35

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とうとう最後までよく判らない国だった、と思います。

パーティの後で

たまに見てるブログなんだけど、こういうのって僕は予断を置かないようにしてる。それは、僕は小学生の頃にポール・ボネという自称フランス人が書いた日本文化の批評みたいなものが話題になったとき、最初から胡散臭い思っていたからだ。そして、実際に「ポール・ボネ」とは藤島泰輔氏のペン・ネームであった。

僕が疑った理由は簡単だ。たかだか数年ほど住んでいるだけで、日本の文化だの風習だのを公に批評するような知識や事情なんて身に着くわけがないからだ。しかも、当人は日本文学や日本の歴史を研究している学者でもない。単になにかの事情で日本に住んでいるというだけである。それなら、単に日本で生まれて暮らしているだけの凡庸な日本人(確か、ネトウヨとか愛国者とか言ったかな)が日本について殆どまともな知識も経験もないのと、実は同じことなのである。実際、日本に住んで10年というだけなら、日本で生まれ育った二十歳の子供はみんな同じ経験を持つはずだが、彼らに日本の文化や風習について、他人からお金が取れるレベルの文章を書けると思う人はいないだろう。いや二十歳で作家になる人はいるからいてもいいが、日本の数十万人いる若者の中でも、そういう才能の人が出てくる確率は数十万分の幾つかなのだ。ましてや、50年くらい前に日本に住んでいたフランス人なんて1,000人もいなかっただろう(いまは永住者は5,000人くらいいる)。確率だけで言えば、日本の文化について語れるような素養や見識を持つフランス人がその中にいたら、たいていは学者であろう。ならば、素性なんてすぐにわかるのだから、「ポール・ボネ」がフランス人としての偽名であろうと、誰なのかはすぐにつきとめられて、競合の週刊誌の餌になるだけだ。

というのは、はっきり言って些事である。どのみち週刊誌に文化や習慣を語るエッセイなんて書いたところで、社会科学的な効用などゼロに等しい。それこそ、ガキがチロルチョコを食べるのと殆ど同じくらいの「社会的な」意味しかないわけである。ただ、チロルチョコがそれとして食べるに値するものだという事実はあるのだから、味わうことになんらかの意義はあろうと思う。でも、味わうだけの値打ちがあればの話だ。

上の記事は、そういう点では意味不明でぜんぜん味わう値打ちのない暇潰しである。だいたい、なんのことを言っているのか分からないし、当人がどういうスタンスや状況で書いているのかもまるで分からない。誰かへの当てつけであることは分かるが、僕が小川仁志氏や飲茶といった公に物を書いている人物への当てつけで遠回しなことを書くのとは違って、単なる私人を遠回しに揶揄されても意味不明だ。「最後まで」ということは、この人物は既に日本にいなくて、どこか海外から日本のサービスを使い続けながら日本語で文章を書いている、はっきり言って海外においても暇を持て余している人物ということになる。ちょうど、アメリカに暮らしていて日本語でブログ記事を書いてるような、現地で友達もいなければ自分なりにやるスキルもない、アマゾンで買った贅沢品に囲まれて家事はベトナム人の家政婦に任せてる主婦みたいなものだ。

しかも、さらによく分からないのがコメントである。「これは、『絶対にやめる』と決めているところをみると、2010年かな?」とはどういうことなのか。この記事そのものが、2010年に書いていた文章を2023年にもなって投稿した思い出話ということなんだろうか。それなら余計に意味不明というものだろう。既に何年も前に移り住んだ土地とは関係のない日本という国について文章を書き貯めておいて、13年も経過してからブログに投稿するなんて、はっきり言って異常としか言いようがない。たぶん、何かが正確に表現できていなくて僕が混乱させられているのかもしれないとは思うけれど、残念ながら何が正確な事実なのかを、僕が自分で調べるなんて手間はかけたくない。

というわけで、このブログも先日の小島氏のブログと同様に、そろそろ注意してフォローするだけの価値はないなと思う。

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