Scribble at 2020-09-02 09:13:06 Last modified: 2020-09-02 09:14:24
この手の話題について、「恥を世間に吹聴するな」と言ってみたり、あるいは小池東京都知事のように限りなく過小評価しようと躍起になってる人たちというのは、人間なんてこんなものという、それこそ「自虐史観」に取りつかれてるんじゃないのだろうか。それに、しょせん人なんてきっかけさえあれば誰でも殺す、いやそれどころか、きっかけさえあれば殺したいと鬱屈したりウズウズしてるような異常者も含まれていると思う。アメリカで小銃をぶっ放してるガキなんかは警察に即座に射殺されたりするわけけど、そういう《行政措置》が認められているということは、結局は現代においても「更生」なんて信じてない国はたくさんあるという証左だ。
ということは、そういう人間を啓発するだとか、あるいは四国の役人や神戸の女子大でフランス思想を教えていた左翼老人がどれほど通俗的な哲学の本を世間にばらまこうと、そもそもそういう人間は哲学の入門書どころか本を手に取らない可能性もある。このような場合に使う言葉としては《不謹慎》と思われるかもしれないが、「マーケティング」としては下の下である。物書きどもや出版人の自己満足と言ってもいい。すると、当人ではなく周囲から圧力を加えるしか手がなくなる。立法や条例の制定でもいいし、公論を興すといったアクションでもいいが、これまた適当な言葉かどうか議論はあるにせよ、「空気」を逆に利用するというわけである。あるいは今風のアイデアを使うならナッジを利用して言動や思考に緩い牽制を加えたり、或る種の誘導を与えるということにもなろう。
しょせん、凡人なんてそうやってコントロールするしか《善》への統計的な移行はままならぬということなのだろうか。もしそうであれば、それもまた一つの「自虐史観」と言うべきではないのか。