Scribble at 2024-01-10 09:47:14 Last modified: 2024-01-10 10:01:38

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昨年から、失礼な話だがトイレでウンコするときに読むための本として、トニ・モリスンの『暗闇に戯れて ― 白さと文学的想像力』(岩波文庫、2023)を読みついでいる。気の毒に繰り返すが、ウンコするときにトイレでしか開かないので、遅々として読み進められていない。いまのところ第1章の終わりまで来ていて、通読された方はご承知のように、ウィラ・キャザーの『サファイラと奴隷娘』という作品をモリスンが論評している箇所を読んでいる。そして、ウィラ・キャザー(Willa Cather, 1873年12月7日-1947年4月24日)という作家を初めて知ったので、興味が湧いて作品をアマゾンで調べてみた。上の画像が検索結果である。

簡単に言えば、新刊で出版されている翻訳作品は僅かしかない。しかも、その中の一冊のタイトルは『須賀敦子の本棚 2 大司教に死来る』などと、須賀敦子氏の翻訳を味わうことが優先されているという、文学作品の扱いとしては不愉快な気分もあるが、ひとまず是非はともかく奇妙な売り方の作品だ。そうした僅かな例外を除けば、過去に出た翻訳作品の大半は実質的に絶版である。かつてはアメリカの流行作家の一人として数えられた人物の作品であり、おそらく戦後の日本でもせっせと作品が翻訳・出版されたのだろうとは推察できるが、復刊も重版もされずに大半の作品が古本屋や図書館の奥へ埋もれている状況にあると言って良い(そして、それはアメリカで流通する原著についても同様だと思う)。大阪市中央図書館で検索しても、収められているのは1950年代に訳出された二、三作品だった。日本の研究者による評論ですら半世紀くらい前の本ばかりである。現代のアメリカの作家が改めて取り上げるような作品ですら、条件によってはこうなっているのだ。恐らく、その条件とは、やはり日本ではウィラ・キャザーが取り上げていた人種というテーマをしつこく考えて語るインセンティブや動機が乏しいということであろう。実際、日本の社会学者やルポ・ライターがせっせと取り上げる部落差別や在日差別や沖縄差別やアイヌ差別にしても、僕が見聞きしている限りで言えば、彼らはそれらの差別を、どういうわけか人種の問題としては自覚していないように思える。こう言ってよければ「同じアジア人なのに、どうして差別するのか」とか「同じ日本人なのに、どうして差別するのか」という、最初からそういう偏見で差別を扱っているようにしか思えない。だから、アイヌ差別は人種差別とは自覚されないわけである。

もちろん、「人種」が実際には生物学的な概念でもなければ地理や歴史として厳密な概念でもない、これ自体が或る種の政治を引きずっている観念であることは、既に欧米の社会科学では常識になっているけれど、人は観念にとらわれて物事を理解したり思考する場合もあるのだから、曖昧だからといって「ない」ものとして議論することは現実的でもなければ学問としても逆に厳密さを欠くことになる。曖昧で歴史的に意味が変わる観念を、それとして理解し定式化することも学問としての役割であろう。それを形式的な用語(人によっては、わざわざ難しい漢語で独自用語とする場合もある)や形式的な定式化に置き換えたからといって、それ以降の観念を固定したり繋ぎ止められるなどというのは、言語や認知についての、いまや「原始的」とすら言いうる未熟な水準の話である。

そういうことで、僕は昔から黒人差別についてそれなりに色々な本を読んだり考えてきているのだけれど、それは「黒人」差別に関心があるからというよりも、人種差別について考えたいからであり、それはまさに日本にもあると思っているからだ。そして、もちろん僕の関心は「黒人」差別だけではなく、黒人「差別」にもあるので、黒人からアイヌへと関心の対象を移したり広げることだけに意図があるのでもなく、結局は差別について考えることが主眼になっている。(なお、このところ、差別する人や、差別する側、あるいは差別的制度の理屈をもっと調べたり分析するべきだという、僕が以前から提案していたアプローチを採用する本がいくつか出てきている。これと同じく、日本で「虐め」などと呼ばれている犯罪についても、虐められている側を保護するような議論だけではなく、虐める側の犯罪心理学的な議論も必要だ。そして、それを的確に本人へ適用するためにこそ、虐めている人々を積極的に逮捕・拘束しなくてはならない。そういう、虐められている側も虐めている側も救うという処置の最大の障害になるのは、もちろん虐めを隠そうとする学校教師だ。)

で、ウィラ・キャザーに話を戻すと、彼女の翻訳作品を読もうと思えば古本で手に入るわけだが、大阪の中央図書館ですら僅かな作品しか所蔵されていないという状況を見ると、いわゆる「歴史的な役割を終えた」という評価が固まったということなのだろうかと思わされる。もちろん、どれほど大量に売れた作品であろうと、文学作品や学術研究書の類で何百年も読みつがれるような古典は、実際には少ない。Loeb Library などをはじめとしてたくさんあるではないかと思うかもしれないが、僕が思うにああした叢書が多くの作品を抱えているのは、単に作品よりも作者を基準に集めているからであって、殆ど読まれていない作品も「どさくさで」収録されているというのが現状だろう。たとえば、みなさんの中でプラトンの『テアイテトス』を真面目に通読したという方はどれほどいるだろうか。たぶん、大学の哲学科を卒業した人であっても、『テアイテトス』を読んだという人は半数もいない(もちろん、真面目に大学で勉強する人間なんて、学科がどこであれ半分もいないからというのが理由の一つなのだが)。あるいは、欧米であってもシェイクスピアの作品を読んだことがある人なんて、実際には大学の卒業生であろうと半分もいないと思う。大半の作品は、作者の評価が巨大であるために「どさくさ」で残されでもしない限りは、遅かれ早かれ読まれなくなるし、絶版になるし、図書館の書庫からも処分されてしまい、わずかに国立国会図書館と、奇特な古本屋と、それから変わり者が自宅に所蔵するだけとなる。これから国立国会図書館での所蔵は、どんどん古い本も電子化されてゆくだろうから、書籍の所蔵(収納スペース)という点では問題が解消されてゆくのかもしれないが、作品が読まれなくなったり忘れられてゆくという事実は変えられないだろう。

しかし、モリスンが改めて掘り起こして論じるべきことがあると実例を示しているように、「歴史的な役割を終えた」などと誰が言えるというのかという問題は常に残る。したがって、駄作であろうと古典であろうと、出版物は可能な限り保存し継承することが望ましいのであろう。もちろん、これについても「アーカイブ」という観念にまつわる、ジャック・デリダをはじめとした幾つかの論評がありうることは承知しているが(書籍を電子化すること自体が、「アーカイブの病」をもたらす破壊や排除や選択というものであろう)作品なり書籍という物品として消え去ってしまうよりは、それらの一部でも保存する方がマシというものであろう。よって、こうして忘れられつつあるような作家や作品、あるいは概念でもいいが、それを掘り返して一部でも現代の言葉で取り上げ直すということにも何程かの意義があろうと思う。いまや、テクノ楽天主義者と成金のどんちゃん騒ぎ、あるいは刹那的享楽か「セカイ」をリセットする転生ラノベや不良少年マンガに没入するしか選択肢がない貧困な(あるいは極端にシニカルな)子供たちの「加速主義」の時代にあって、こういう古臭いものに拘るというのは、或る種の逆張りパフォーマンスや、加速主義と同じくらい知的に未熟な人々のインチキ「保守」とかセンチメンタリズムに見えなくもないわけだが、要は僕が何を読んで何をするか(当たり前だが、必ずしも当サイトの論説として公表することだけが「成果」ではない)が重要であろう。

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