Scribble at 2026-07-04 14:10:01 Last modified: 2026-07-05 10:29:00

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これは、恐らく国や時代を問わずに言えることだと思うのだが、メディアあるいは個々のメディアで考案されたり始められる番組や企画は、技術的な洗練度が進むという特徴だけではなく、やはり産業としての収益構造が確立するにしたがって、はっきり言えば内容の質が低下してくるという特徴がある。その代表が、この Abema のようなゴミくずメディアだ。ご承知のように、「朝日が手掛けるネトウヨ(あるいはプチブル)放送」と言われて、大手のメディアが何を社説や「天声人語」のような雑文に書いていようと、しょせんはビジネスでしかないという事実を教えてくれるメディア・リテラシーの皮肉な教材である。

勃興期のメディアというものは、産業として確立していないために収益構造も定まっておらず、つまりは評価の基準が受益者の側にも提供者の側にもない。したがって、少なくともテレビやラジオの放送番組や新聞や雑誌の記事を手掛けて頒布する側では、嫌でも何でもコンテンツの質によって自分たちの仕事の完成度を測るしかないのである。最初期のテレビマンや新聞社のスタッフが、ものづくり精神とばかりに番組や記事の品質にこだわって制作していたなどという美談が語られることは多いが、あれは他に仕事の基準がなかったからにほかならず、テレビ局や新聞社の人間が誠実で真面目だったからでもなければ、後知恵でいくらでも美化したり正当化できる崇高な理想や意志があったからでもなんでもない。それ以外に良し悪しを決められなかっただけのことなのだ。しかし、いまや産業として収益構造が確立してくると、ご承知のとおり評価の基準が視聴率などのように明確で単純なものとなる。過去のスタッフに比べて現在のテレビ局や新聞社のスタッフは平均して学歴が高いけれど、皮肉なことに現代の彼らの仕事は小学校を卒業していなくても分かるような基準で評価されるというわけだ。

かようにして、評価の基準が内容の質とは関係のないところで決まると、もちろん質の向上は軽視され、センセーショナリズムを「ジャーナリズム」と言い換えたり、パブリシティ優先の番組編成を「視聴者のニーズに応える番組づくり」などと言い換えるようになり、そして広告代理店と自分たちで勝手に作り上げた視聴者イメージとその嗜好を理由に、通俗化や短絡化の道を転がり落ち始める。まだ社内に旧時代の価値観や経験をもつスタッフがいればともかく、そういう通俗化や短絡化によって制作された番組を観て、それらの中だけで良し悪しを比較するしかない世代ばかりが集まってメディア配信の組織や番組を作り始めると、もう歯止めが利かなくなる。その一例が、この Abema だと言っていいのだろう。実際、Abema TV の運営を担っているのは朝日と広告代理店(サイバーエージェント)であり、サイバーエージェントもまた、電通や博報堂といった広告代理店とは違って、産業としての立ち上げを経験していない世代だけの会社であって、質だけを考えて広告を作ったような世代が存在しない、収益構造が確立した後の基準や価値観でしか広告を作れない人々だ。要するに、メディア企業と広告代理店が一緒に経営していても、かつてのテレビ局や新聞社の社内で営業と編集とのあいだにあった牽制関係が殆どできていないわけである。Abema なんて、十中八九は営業マン(と同じ思考の人間)が番組を作っているのだろう。

といったわけなので、僕は原則としてメディアというのは零落するしか先がないと思っていて、これを食い止めるのにウェブでメディアを始めたところで意味がないという意見だ。しょせん、媒体がなんであろうと、その組織が収益構造を必要とする限りは同じ未来しかないからであり、その規模が小さく練度も低ければ、その零落は数年どころか数か月で生じるし、もちろんご承知のように DeNA やサイバーエージェントなどが手掛ける無数のゴミくずメディアでも分かるように、最初から無知で未熟な人間の掃き溜めみたいなメディアも量産される。つまり、情報とか事実を他人から知らされたり確かめるという営みにおいて、その手のリスクがないメディアなんて存在しない時代なのであり、そのようなリスクに自分の子供をさらしたくないと思えば、ウェブやテレビどころか新聞や出版物の類に至るまで遮断するしかない。だが、何かを知ったり伝えるにあたってメディアを全て遮断するというのが愚行であることも事実だろう。僕らの生活は、なにも自分の肉声が届く範囲だけで成立しているわけではないからだ。

したがって、昨今のメディア関連の著作物では、「情報を鵜呑みにしない」だのなんのという、言うのは簡単だが殆ど実行も貫徹もできない空虚な助言を書く者が専門の社会科学の研究者にすら多い。しかし、現実には全てを疑って複数の手段で検証することなどできはしない。新聞の記事を読むときに、文を一つずつ取り上げて、事実であるか、正しいかを他のソースを参照しながら読んでいく人など(一部の疾病の人を除けば)いないし、できないし、そしてするべきでもないだろう。そうであれば、問題は「情報を鵜呑みにしない」などという子供騙しの助言に空虚な同意を示すことなどではなく、どういう情報がどう示されているときに疑うべきなのかという条件や特徴を洗い出して基準を自分で作ることが必要だ。そして、その基準が妥当であるかどうかを自ら反省するための条件も決めておく必要がある。日本の社会科学の通俗的な著作物に多い欠陥は、愚劣なほど短絡的なスローガンをまくしたてるだけでしかなく、このような具体的な実務という発想がないことにある。そして、その理由は僕に言わせれば明白である。つまり、社会科学者の大半も、そんなことを自分でやった試しがないからなのだ。

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