Scribble at 2021-05-23 11:18:18 Last modified: 2021-05-23 12:04:08

僕は、とりわけ日本の哲学の教科書や通俗本が「哲学オタク」のものでしかないという指摘を何度か PHILSCI.INFO で書いていて、そもそも中高生の頃に『哲学探究』とか『方法序説』とか『テアイテトス』とか、その手のものを読んで〈準備万端な〉小僧しか相手にしていないと非難もしている。その理由は幾つか、いや幾つもあるが、いちばん明解で分かりやすいのは次のようなものだ。

僕らが、何かを考えたり、何かを見聞きしたり、あるいは何かを知るということ、そしてそれらの成果である「知識」とか「記憶」とか「感情」とか、その手のあれこれについて、僕らは何を学んだり知ることで十分な見識を得るのだろうか。僕らの前には幾つかの提案が並べられている(もちろん僕ら自身が何か新しいアプローチを考案してもいいわけだが)。知覚の哲学とか、古来から「認識論」と呼ばれてきた分野とか、そして認知心理学なり脳神経科学なり、それから数理モデルを立てる機械学習のアプローチなり、公平に言って、それらのどれであれ選ぶ価値があろう。では、哲学のテキストとして認識論とか知覚の哲学といった分野を学ぶように、それこそ introductory な説得として、われわれはどのような議論を手にしているのだろうか。「何かを知るとか、考えるとか、見るとか聴くとか、そういうことを正確に理解したり学ぶなら、生理学や認知心理学を勉強すればいいだろう。なんで哲学なんかで分かると思えるのか、そっちの方が俺には理解不能だね」こう言われて、どう反論するというのか。

実は、そういう反論は殆どない。哲学の教科書や一般向けの本で、そのような議論を展開する人は(少なくとも日本では)殆どいないからである。要するに、既に何事かを考えるとか知るということはどういうことなのかという問いについて〈哲学というアプローチを選択した人〉が読むのが哲学の教科書であるという、非常に強固で、そして恥ずべきと言ってもいい思い込みがプロパーや出版社の編集者にある。結局、日本の教科書や一般書には、前の段落で多くのプロパーには違和感を与えるよう敢えてそう書いたが、「説得」するというスタンスが欠落しているように思う。〈哲学的なテーマ〉に関心や興味や拘りをもつということが、あたかもイヌが肉付きの骨に引き寄せられるようなものだと思いこんでいる手合いには想像もつかないことかもしれないが、それと哲学書や哲学の教科書を手に取って読み進めることは別なのだという理解に及んでいないのは、要するに知識、なかんずく哲学についての理解が、求められて当然でもなければ弁えるのが当たり前のことでもないという、多くの国ではごく当たり前の状況に置かれた経験がない証拠だ。日本の官僚とまったく同じことが言える。

このような人々の書く教科書や入門書が、どれほどスカートの短い女子高生のイラストを表紙に使おうと、あるいはふんだんに漫画や図表を「活用」してビジュアルな解説をしようと、それとも(開成高校に通う「ふつうの高校生」)A 君と大学教授が繰り広げるスノッブそのものといった会話を「対話式で分かりやすい」として出版しようと(feminist approach が教えるとおり、マルクス主義を下敷きにしてなくてもプラトンの対話編にすら同じような指摘はできるわけだが)、しょせんは哲学を一種の〈真剣な暇つぶし〉としか会得していない人々によるモノローグでしかない。オタクや wannabe は、そうしたモノローグへの憧憬をもっているので、わかろうとわかるまいと勝手に本を買ってくれるし、「哲学」なるものに何らかのセンチメンタルな印象をもったり、あるいは逆に「横紙破り」というか空気を読まないというか、敢えて言うが発達障害に近いスタンスを後押ししてくれる正当化を求めるような人々が手にとって、勝手に吸い込まれてくれるというわけだ。

以前も書いたことだが、日本の哲学や思想に関する出版業界は、こういう状況を(たぶん)知っていながら放置している疑いがある。為政者によくある理屈と同じで、〈民衆は知らぬまま、愚かなままにしておく方が良い〉ということだ。哲学書は、哲学オタクや文学少女だけが飛びつくような〈商品〉であればよく、それを読んでしまえば他に読まなくてもいいような本を出版してしまうと、あとは洋書や学術雑誌に向かうかもしれず、あるいは自力での思索へ向かうかもしれない。それでは困るのであって、毎年のようにくだらないサバイバル哲学を標榜する小川某や、まとめ本のなんとか茶や、素人言語学が大好きな小平の英雄や、Twitter に自意識過剰なアイコンを使う岸政彦くんの同僚や、あるいはプロパーとして何の業績があるのかまるでわからない哲学用語の解説屋とか、その手の連中が手を変え品を変えて出してくる「商品」が売れなくなると困るというわけである。

もちろん、われわれが騙されているとまでは言わないが、そういう状況に気安く身を任せている人も多い。とりわけ素人であればなおさらだ。哲学について関心をもちながらも、自分でものを考えるのは面倒くさいので、漫画の登場人物や、東大の先生に格好いいことを語ってもらおうという皮肉な状況に流されやすいのは仕方のないことであり、それを押し止める力など、最初から哲学の本にはないのだ。〈哲学的な〉思索や関心はともかくとして、「哲学的な」読み物とか「哲学的な」テーマの教育やアウトリーチは、〈社会〉に支えられてこそ成立するし維持されもする。大学の哲学科が消滅しても人が〈哲学的な〉思索をしなくなるわけでもなんでもないのと同じであり、根本的に言って哲学は教育制度や出版業界とは関係のないことなのだという理解から出発してものを書く姿勢を確立しないかぎり、日本で出版される哲学の通俗本や教科書は、ただの〈知的営為にとっての下方圧力〉にしかならない。

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