Scribble at 2021-09-04 08:45:18 Last modified: 2021-09-09 11:53:35

天才に発達障害が多い、俺は発達障害だ、ゆえに俺は天才だ、みたいなことを言ってる宮台とかいう賞味期限切れの社会学者がいるらしいが、かように日本語の文字を書けるていどで本を出したり大学で教えている連中が我が国の〈下方圧力〉になっているのだ。そして、得てしてかようなバカは自覚がないどころか、自分たちこそが日本の知性を代表しているなどと思い込んでいる。また、一緒になって本を作っている編集者たちも彼らの元教え子だったりファンだったりするので、かようなレベルの人々でも簡単に「著作集」とか「全集」を国立国会図書館へ残せるというわけだ。(そんなもの戦争が起きたら幾らでも消失するし、日本人研究者の著作の電子書籍データを保存してる暇人が海外にいると思ったら大間違いである。)

しかし、少し冷静に考えてみれば分かることだが、そのような連中は(英語という一定のバイアスはあるものの)国際的なスケールや水準では何の評価も受けていない。アメリカやフランスやドイツ、いや台湾や中国やロシアやモンゴルやチリでもいいが、それらの国の社会学者なり社会科学者に「宮台真司を知っているか」と質問して、いったい何人が怪訝な態度を示さずに頑張って思い出そうとするか、海外で社会科学系のカンファレンスに参加する機会があれば試してみるとよろしい。こんなものは、いわゆるフェルミ推計なんて雑な想像をするまでもなく明白だ。

日本の社会科学者がもっているアドバンテージは、理論という点で言えば殆どない。経済学で海外の研究者からも参照される人物が少しはいるようだが、そもそもそういう人々は青木昌彦氏にしても宇沢弘文氏にしてもアメリカの大学教員だったのだから当然だろう。簡単に言えば、日本の社会科学者のアドバンテージは、日本で生まれ育ったために日本の生活や制度に詳しいという点にしか無いのである。しかも、その詳しさの大半は、日本で生まれ育たないと理解することが難しい言葉のニュアンス、たとえばどういう文脈や発言が部落差別に結びつくかという生活感に関わる。それ以外の「情報」については、単に日本語を読み書きできて情報を手に入れる手順や分析手法を習得し、情報へアクセスするための身分と時間と金を確保すれば、誰でも同じレベルに到達できる。それ以外に学術研究で必要とされる理論の理解については、既存の膨大な数の翻訳書を〈通読さえすればいい〉だけなのだ。そこに独自の解釈や発展など付け加える必要はないし、実際にそんな業績は日本に殆どない。一部の人々は、マルクス主義に関連する著作について日本が特別な研究レベルにあると自画自賛し続けているが、そのような主張自体が国際的な観点から言って何の支持も受けていない世迷い言である。

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