Scribble at 2026-07-28 05:46:42 Last modified: 2026-07-28 05:53:53

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# ChatGPT Image 2.0

イラストは複雑に描かれてしまっているが、僕の議論はかなり初歩的でシンプルだ。

風景とか情景などと呼ばれる対象は、一定の物理的な条件によって存在していて、それを僕らが目で眺めるときには一定の限界や時系列に沿った独特な感覚受容の一式があり、そこから受ける印象や記憶なども合わせて経験となる。何がそのときに「風景」とか「情景」あるいは「光景」として体験される(べき)かは、僕らがそこで何をやっていたり、何を求めたり考えたりしているかという、僕らの事情や目的や行動や態度などにも依存するので、それを忘れて自分が見たことや感じたことだけを思い起こしたり記憶を繋ぎ合わせるというのは、実は自分自身の経験の説明としては不十分あるいは不適切かもしれない。だが、そういう説明が不十分であるとか不適切であるという価値観や基準が常に正しいとも限らないわけなので、こうした経験についての議論は、ここ最近の epistemic justice という流行もあるように、心理的・社会的な脈絡と独立に是非を議論できる(してよい)とは限らないのだということが分かる。

さて、こうした経験を構成する要素(僕らの視神経が刺激されることや、そこから生じる印象など)は、デジタル一眼カメラやビデオ・カメラで撮影したデータとは異なる。もちろん電気化学的な物理状態としても異なるし、それが表す情報という意味でも違っている。そして更に、それら撮影され保存されたデータから再構成され描写された、デジタル画像や映像や印刷物としての「風景画」を、僕らが目で眺めるときにも、風景を眺めるときとは違う経験となるのは間違いない。風景を眺めているときには、右を向いて別の景色を眺めることができたけれど、写真が印刷された枠よりも右を眺めたところで続きが見られるわけではない。また、風景を眺めているときには遠方や手前に自分の都合で焦点距離を変えられるが、写真や映像では不可能だ。写真の中で遠方の物体から手前の物体へ注目したとしても、それは眺めるものを変えただけであって、焦点距離を変更したわけではないからだ。同じく、遠方に写っている山を眺めたからといって、その山が手前の何かよりもはっきりと見えるようになるわけではない。

このようなわけで、風景画や風景写真、そして僕が取り組んでいる生成 AI の風景画像を制作したり議論するときに押さえておかなくてはいけない基本中の基本は、これらの作品で表現されたり、あるいはこれらの作品を鑑賞する経験というものは、僕らが或る場所で風景に接していたときの経験とは「違う」ということである。もちろん、それらが違うからといって、どちらかが「本物」であり他が「偽物」であるなどと考える必要はないかもしれないし、どちらかが「本質」であるなどと考えるべきではないかもしれない。特に、自分自身の肉眼で眺める経験を過大評価するセンチメンタルな人々に多い傾向として、現実の風景を眺めることだけが「経験」であると考えてしまうことがよくあって、展覧会で油絵や写真などを眺めているときの経験だってユニークな、そのときの心理や事情などによって影響を受けているかもしれない出来事でありうるということを忘れがちではないのかということは指摘しておきたい。

僕はかなり前に、写真は風景を絶対に表現できないと断言したことがあり、したがって僕は風景写真やスナップ写真で自然や社会や人々の暮らしを表現するなんてことは傲慢だし錯覚だしセンチメンタリズムにすぎないと切って捨てたことがある。これは今でも正しいと思っているが、しかし風景写真や風景画やストリート・スナップには、鑑賞し眺めている人々に何らかの経験や印象を促すという効用があるはずだ。こういう経緯があって、僕は風景写真やスナップ写真などを再評価するようになった。

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