Scribble at 2023-10-25 17:19:36 Last modified: 2023-10-25 17:28:15
大型書店へ行くたびに文化人類学の棚を眺めるように努めている。もちろん、哲学者としては、軽率にこうした視点を哲学の alternative であるかのように「活用」しようなんていうスケベ根性はない。ただ、既存の観点とは異なる興味深いアプローチであるため、興味をもたずにはいられないのも事実だ。たとえば、マリリン・ストラザーンの『監査文化の人類学』などは、情報セキュリティ・マネジメントの実務に携わって20年近くが経過する実務家でもある哲学者として、それなりに刺激的なテーマだ。
ただし、僕はこの手の文化人類学や社会学の、上から目線とまではいかなくても生暖かい視線というのは慣れているし(僕もかつては法社会学を専攻しようとしたこともある)、その大半が安っぽいリベラルの官僚制批判やら「男根」主義の脱構築とやらであることも承知しているので、そう簡単には「はいそうですか」というわけにはいかない(こっちは高校生の頃から『グラマトロジーについて』とかジョナサン・カラーの解説すら読んでる科学哲学者だ)。特に、学者なんて事務作業の実務能力を欠いた人々が進むような職業の典型とすら言えるので、そこで組織から求められる雑用の数々に対応しきれなくて頭にきた連中が書くような「サラリーマン文化」とか「ビジネス」の批評というのは、要するにただの反抗とか仕返しに過ぎなかったりする。とても文化人類学、いわんや哲学として議論するようなレベルの話ではないというのが僕の実感だ。
もちろん、上で紹介した本がその手の浅薄なビジネス批評なのかどうかは知らない。でも、実際にビジネスやテクノロジーの批評として傾聴に値する成果があるのは知っている。たとえばハイデガーのスタンスなどは、一見すると事務作業とか技術とかをバカにしている様子があるけれど、僕は彼のスタンスは根本的に言って「絶望」とか「同情」という印象しか感じられない。そして、しょせん哲学なんて呼ばれているようなことも、こうした同情するべき営為の一つにすぎないんじゃなかろうかという失望すら感じる。ニーチェとかハイデガーが、とりわけ英米のロジックについていけない人々から喜ばれるという根本的な錯覚のもとに持ち上げられているのも、ハイデガーらのそうした絶望というか諦観のようなものが理解されていないからなのだろう。僕に言わせれば、ハイデガーやフッセルやカルナップやゲーデルといった人々は、同じところに立っているように思えるのだ。