Scribble at 2023-10-17 18:08:45 Last modified: 2023-10-18 00:59:24

第一次安倍内閣で話題となった「教育再生会議」の第一次報告書は、平成19年・・・西暦で書けよ面倒臭い。何年前なのか分からんじゃないか・・・2007年1月24日に内閣へ提出された。これを改めて眺めてみようと思ったのは、『「ややこしい子」とともに生きる』(河原ノリエ/著、岩波ブックレット No.703、2007)で言及されていたからだ。ワタミの社長とか、とにかく碌でもない人選であったという悪評は色々と聞いていたが、実際にどういう提言をしたのかは目を通していないので、この機会に眺めてみようというわけである。もちろん、バカや無知無教養な連中が何を話し合っていたのかという興味本位だけではない(ちなみに東大教授だろうとバカはバカだし、専門でない分野に口を出すなら無教養と言うべきだ。僕は権威主義者なので、専門的な知見なり経験を必要とする話題にバカが口を挟もうとするのは許し難い)。

まず「Ⅰ.第一次報告に当たっての基本的考え方」というところで、公教育を再生しようという意図が表明される。細かいところから指摘しておくと、「大人社会全体の取組を通じて」という文言には、強い違和感がある。「取り組み」を「取組」などと表記すること自体、この文章が日本語のまともな能力をもっていない事務屋どもの処理した出力結果であろうと推察される。日本人でありながら「取組」なんていう漢字検定8級(送り仮名を問われる)すらとれないクズ同然の能力で教育を語ろうとは、笑止もいいところだ。こんな些細な一点だけでも、かような「愛国」とか「美しい日本」なんて御託を口にしている連中が、そもそもまともな日本人かどうかすら疑わしい輩であるという明白な証拠ではなかろうか。少なくとも保守の人間として、こんな連中が日本という国を語ることは許し難いね。

次に「我が国は、魅力と実力を高め、国際社会から尊敬と信頼を得なければなりません」とあるが、これは「美しい国」のように多くの人々から失笑を買ったフレーズと同じく、こんなことは国(の機関)が目標として掲げたり公言するものではないだろうと思う。自分が生まれたり育ったり住んでいる国(これらはバラバラでもいい)が愛すべきところであるかどうかなんて、しょせんは各人が感じたら良いことであって、そのうえで他人に言い表すかどうかも個人が勝手にやればいいことである。また、国が何をしているかということと、外国に住んでいる人々が我が国の何かや、誰かや、何処かについて何を感じて尊敬したり関心をもったりするかは、それこそ相手の好き好きであろう。或る時期においては、「最も良い日本人とは、死んだ日本人である」と言われかねない状況だったし、現在でも「最も良い日本人は、股を開いてくれる女子高生である」と言われかねない状況であろう(実際、現代の日本を世界有数の風俗産業国家だと思ってやってくる観光客もいよう)。

ともかく、「大人一人ひとりが子供の目標となるよう誠実に努力する必要があります」とか、いったいどの口で言っているのかと思うようなことを書いていて、冒頭から唖然とさせられる。もう少し読み進めてみるが、やれやれという気分だ。

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