Scribble at 2022-07-30 08:44:26 Last modified: 2022-07-30 18:40:44

事実この人物、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、2011年)という「キリスト教のすべてがわかる決定版入門書(新書一冊程度で巨大な歴史現象であるキリスト教の「すべてがわかる」などと銘打てる出版社の見識をまず疑うが...)」で20万部以上売り上げていたりと、宗教に関する講壇学者の代表格と見做されているようです。また、上のメディア自体、現代のビジネスマンをはじめとした進歩的「知識人」に多く読まれており、その影響は無視できないほどです。実際、この種の記事を読んで、宗教について分かったような気になっている日本人は少なくありません。

橋爪大三郎批判 その①(東谷 啓吾)

体裁がよく分からないのだが、牧野紀之氏というヘーゲルの著作を翻訳されている方の個人サイトであり、そこへ他の人物が書いた論説を同人誌の体で掲載しているということなのだろう。

まず、橋爪大三郎氏と言えば、僕は彼の著作を一冊だけ大昔に読んだことがある。それは、『言語ゲームと社会理論 : ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』(勁草書房、1985)であり、高校を卒業してから神保町で雑誌の編集者をやっているときに、ルーマンの『法社会学』やエールリッヒの『法社会学の基礎理論』などを読んでいた頃に目を通したことがあった。そして、何やらタイトルに上がっている三人についての教科書的な解説(一次ルールだの、規範だの、言語ゲームだの)が書かれていたことは覚えているが、それ以外は何も記憶にない。そして1年ほどすると法社会学の研究を志すようにはならなくなったし、社会学全般にもさほど興味がなくなったため、それいらい橋爪氏の著作とは縁がない。もちろん、彼があれやこれやと不調法な著作を書き殴っているらしきことは見聞きしているが、もはや日本には彼や宮台氏のようなイデオローグか、岸君をはじめとするセンチメンタルな左翼の作文家くらいしかいないのではあるまいかと思うので、社会学そのものがどうでもいいという印象が強い。ていうか、橋爪氏ってフィールド・ワークとかやったことあるの? ヤクザの事務所とかアダルト・ビデオの制作会社とか同和地区とか沖縄とか新大久保の在日朝鮮人地区に行けばいいってわけじゃないが、少なくともこの手の人々がまともなフィールド・ワークをやってるとは思えないね(宮台真司氏が恐らく80歳になっても自慢し続けるであろう、女子高生100人斬りとかもフィール・ワークじゃねーだろ)。まるで東大本郷から数キロ先の伏魔殿で国民の生活を差配している国家官僚と同じだ。そういうわけで、上記の著者である東谷氏が News Picks のような、都内の成金どもが集まって国家官僚の真似事よろしく天下国家を語るような、リバタリアンの茶話会ともいうべきメディアを馬鹿にしているのも分かる。

しかし、僕はこの文章で使われている「講壇学者」という表現のニュアンスは同意できない。

近代以降の、制度化された教育システムと出版産業において「プロフェッショナル」の学術研究者コミュニティが成立し維持されている以上、もはや学者は「講壇」と隔絶した身分ではありえないからだ。大学教員は、教育・指導の職責を担うサラリーマンである。大学が行政法人になろうとなるまいと、既に現代の学者や大学教員は経済や社会という仕組みから言って「サラリーマン」でしかありえなかったのだ。ましてや、その多くが博士課程で(たいていはロクでもない)卒業論文をディフェンスしただけという凡庸な人々が続々と大量に従事するようになった業界であるからには、その通俗化や劣化(敢えて言えば「民主化」)も避け難い。

したがって、「講壇学者」と書いて通俗的なパフォーマンスに興じる無能というニュアンスをこめたところで、とりわけ日本にそうでない学者がそもそもいるのかという問題が残る(実際に本を何冊書いているかは問題ではなく、そういうシステムに組み込まれていない者がいるのかという話である。よって、牧野氏をはじめとする人々も例外ではないのだ)。これが、たとえば教育制度から独立したシンクタンクや研究機関に所属する人々だったらどうかという反論もありえる。プリンストン高等研究所とか、日本財団の「上級」スタッフとかがそうだろう。でも、学生を教える職責がないというだけで通俗化をまぬかれているというのは、はっきり言って社会人として迂闊だし浅薄な理解でしかない。そのような institution が設立され活動しているという事実こそがパフォーマンスだからだ。そういうところで働く「学界のロック・スター」たちであろうと、皮肉なことに〈社会学の観点では〉、しょーもない短大で分析哲学の真似事をクリシンとかで教えている無能と大して変わらないのだ。

そして、それゆえに「講壇学者」であろうとなかろうとすべてのプロパーが世俗的である他にない〈からこそ〉ダメだと言いたいわけではなく、僕は学問それ自体がヒトという生物種の営みである他になく、われわれが宇宙の真理を見つけようが見つけまいが、そのうち宇宙は終焉のときを迎える。その偉大なる発見も、たちどころに無意味となる。この深遠なり虚無を見据えることから始まるのでないかぎり、そこにどういう社会的・人間的な価値観を持ち込もうとそんなものは哲学と関係がない、自意識や駆け引きのネタでしかあるまい。そもそも、「講壇学者」でないとしたら、その人物には何ができるのか。当人でなくても、その人が「講壇学者」でないと思う人物にはどんな成果があるのか。紹介していただきたいものである。もし、古典の単なる翻訳とか、ありえないほど大部の本を伝手で出版してもらったとか、どこぞの名誉教授として岩波書店から著作集を刊行してもらったとか、そういう〈哲学的にはどうでもいい些事〉でない、何か目を見張るべき人類史上の業績というものがあれば、ぜひ哲学者である僕に見せてもらいたいものだね。

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