Scribble at 2026-10-23 07:55:16 Last modified: 2026-10-23 08:00:08
同じような経験を共有していないと、それに関連する言葉が通じない。『ドラクエ』をプレイしたり、『ドラクエ』にまつわる話題を見聞きしたことがない人に、「それは過剰反応だよ。スライムにイオナズンをあびせるようなものだ」と言っても、意味が分からないのは当たり前だ。前段の「それは過剰反応だよ」というフレーズで、どういう意味合いの発言なのかは分かるにしても、同じ主旨のフレーズをいつでも一緒に添えて話してくれる人が多いとは限らないし、同じ人でも常にそうしてくれるとは限らない。
こういうわけで、昨日から『エヴァンゲリオン』を観ている(笑)。いきなりだが、これは連れ合いが「エヴァ」で頻出する用語を使って何かを言っても、僕が理解できないときがあるらしいからだ。僕は、特にテレビ版を殆ど観ていないので(映画版は全て観ていると思うが、あまり記憶に残っていない)、連れ合いが自由に、それから自然に発言していても、僕が理解できないのではストレスになるということだ。
こういうことは、もちろん誰にでもある。それぞれの人は、生まれ育ちも性別も年齢も異なるわけで、たとえ一卵性双生児ですら厳密には異なる経験をして異なる人生を生きるのだから、それに応じて習得したり慣れ親しむ事柄にはおのずと違いがある。そして、そういう経験において周囲の人物や環境との交渉で必要な知識や情報に関わる独特の用語や言い回しというものがあるわけで、これは何も特定の専門職や特定の業界で使われる用語や隠語の類だけに限ったことではない。単なる一般家庭という集団の中ですら、そこにおいて独特の言い回しというものが使われることはあるのだ。もちろん、当家もその一例になるだろう。両親は天皇陛下を不敬にも「天ちゃん」と呼んでいたし、僕は昔から知らない食材をなんでもかんでも「かんぴょう」と呼ぶ癖がある。
ただ、うちではこういうことは「エヴァ」を観たりすればいいだけなので、さほどの負担ではない。逆に僕が彼女と同じ言葉を共有しようとして、たとえばファン・フラッセンの『科学的世界像』を彼女に読んでもらう必要があるかと言えば、そんなことはない。僕が彼女と共有したいのは哲学用語というよりも、考えることだからだ。哲学かどうかはともかく、ものごとを考えるにあたって、それに関連する知見を学んだり議論するためには所定の用語を覚えておくことが望ましいけれど、それらの知見を使ってものを考えたり議論するという本来の目的においては、それらの用語を相手に知ってもらう必要はない。「超越論的」という言葉を知らないからといって哲学できないどころかものを考えられないわけではないのだし、そういう用語を知っているかどうかという知識は必要条件でも十分条件でもないのである。