Scribble at 2020-09-30 08:47:23 Last modified: 2020-09-30 08:48:34
よく、「映画を字幕なしで観たい」という理由で英語の勉強をするという人がいるんだけど、そういう動機や目的で英語の勉強を始めて何ほどかのレベルに達した人なんて見た試しがないなんだよね。
僕が思うに、言葉というものは自分がものを考えたり何かを理解したり、あるいは誰かに何かを伝えるために、《そうせざるを得ない》ような仕方で吐き出したり飲み込んだりする何かだという実感がある。何かを考えていて、自分が思っていることを正確に言葉として表現できている保証なんてないし、そういう実感もあまりない。もちろん、《それ》をクオリアだとか《意味》だとして実体化したり固定化するのは、僕は認識論や言語哲学の話として徹底的に愚かで馬鹿げていると考えているので、言語は《この他でもない私》が《もっている》ところの《意味》を運ぶ bearer であるなどとは断じて思わない。それを descriptive な理論としてではなく、言語学的なモデルつまりは normative な理論として想定することも間違っていると思う。そして、これを強く自覚して取り組んでいた哲学者の一人がジャック・デリダだと思う。
ともあれ、映画を観るなんてことが自分の生活の一部になっていて、それをせざるを得ない人なんて映画評論家ですら一部の人々だろう。よって、はっきり言えば切実さのないところに物事を習得したり学ぶ本当の意欲なんて起きないと思うんだよね。逆に、軍人が特別な研修施設で2週間くらい特訓すれば現地で簡単な会話ができるていどに外国語を習得できるというのは、それこそ《それ》ができなければ死ぬからだ(あるいは教官に死ぬほどしごかれるからでもあろう)。「血反吐を吐くような修練」なんて時代錯誤もいいところだけれど、他人にやらされるのではなく自らやるなら、別に体罰でもなんでもないわけで、思想家とか学者というものは多かれ少なかれそういうプロセスを経ている。僕のような人間ですら、学生の頃はそれなりに色々とやった覚えはある。