Scribble at 2023-09-14 11:22:06 Last modified: unmodified

何度か書いているように、僕は科学哲学者としてはクワインのホーリズムを支持していて、人類にとっての知識や学問や思考・生活形態の殆どは相互に関連があって、影響しあっていて、一方から他方への影響だとか依存関係があれば、また逆の影響や依存関係もありえる。そして、それらは常に歴史的・暫定的な内容だとか価値をもつ。哲学の学説であろうと、あるいは物理法則や数学の定理であろうと、改定不能というわけではないし、言語表現としても固定しているわけではない(それらを仮説や前提あるいは信念として固定しコミットすることは自由だ)。これはつまり可謬主義(人は誤りうる)や有限主義でもある。したがって、東大で哲学を教えている教員の語る理論が、京都王将の店主が語る屁理屈よりも「価値がある」とか「崇高である」などという評価は、ただの一時的な基準で比較しているだけのことでしかなく、店でチャーハンを食っているときの僕からすれば、寧ろ店主の屁理屈にこそ道理があると感じてもいいわけである。

しかし、僕はこれと同時に権威主義者でもある。これはつまり、或る種の擬制(仕掛け)として社会には権威(信念や説得力の規準)が必要であるという考え方だ。したがって、ホーリズムを支持する人々の一部は、そこからただちに文化的な相対主義へと進む傾向にあるが、僕は相対主義は信じていない。もちろん、黒人の文化よりも日本人の文化が「優越している」といった類のインチキな権威など論外であって、僕がここで何度も書いている権威は、十分に妥当な根拠と説得力を持たない限りは即座に、かつ徹底的にその権威を剥奪し放逐しうるような、敢えて言えば「下から支えたり、破壊できる権威」である。よって、従来の権威主義として語られてきたような、権威をもつ当人が語る事後的な弁解や正当化の類は、僕に言わせれば権威主義というよりも単なる傲慢や専制でしかない。

このような発想は、もともと僕が社会科学を学んでいて、社会学や考古学、あるいは文化人類学に強い関心をもっていたという事情がかかわっているのだろう。簡単に言うと、僕にとっては哲学もまた一つの文化が許容している知的営為の一つにすぎないのであって、真善美を考え語るからといって、あらゆる時代や地域や人にとって価値があるわけでもなければ、通用するわけでもなく、そして実際にあらゆる哲学の概念や学説には、口で言うほどの普遍性などありはしないのである。これは僕が哲学者として支持している cognitive closure 仮説によっても説明できる考え方だ。従来の理解では、この cognitive closure とは論理的な概念だったのだが、僕は更に強い理論として認知科学の成果も取り入れた概念、つまり論理的に人の認知には限界があるというだけではなく、そもそも人は生物学的・神経科学的な認知能力には限界があり、その枠内でしかものを分類したり考えられないのである。

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