Scribble at 2024-04-16 11:31:43 Last modified: 2024-04-16 19:38:11

外国語を学ぶ効用には色々あって、これまで当サイトでは何度も書いてきたように、外国語を話す人々との意思疎通を行って、交易したり、逆に誤解や無理解から生ずる争いを避けることなど、実生活に即した効用がある。もちろん同じ言葉を話す者たちどうしであっても誤解が生じる恐れは常にあるため、このような効用は単純にあるとかないとだけ言って済ませられるものではない。

そして、それ以外にも自分の慣れ親しんでいる言葉なり言語の理解とか運用を反省するための材料や参考になるという効用もあろう。一例を挙げる。

It rains now.

これは、もちろん日本語では「雨が降ってる」という表現になるが、日本語には形式主語がないので、読み慣れてはいても自分で英語の文として表現するときには、なかなか扱いに困る。よって、中学生などがよく間違うように、"I have a rain now." などとやってしまうわけである。もちろん、これは論理的におかしい。雨はその人の頭の上だけに降る現象ではないからだ("we" を使うと周囲の人も含めて雨に降られているという状況を正しく表せるが、それでも雨が降っている「情景」を表すには不適切な気がする)。おまけに "rain" は原則として不可算名詞だから "a rain" などとは言えない。

よく、英語は論理的な言語だなどと言う人がいて、英語を学ぶと論理的な文章を書けるようになるとか、論理的に考えられるようになるなどと言うが、これは間違いである。特定の言語を習得していることと論理的であるかどうかが必然的に、あるいは高い関連性で結びついているなどという学説や統計は存在しない。他方、歴史を顧みると、そのような「意見」はおうおうにして人種差別の理屈であったという事実はある。そして、そのような人々が考えていた「論理」というものもまた、特定の言語に最適化された記述形式を採用しているという歴史的な経緯だけで、その言語が論理的であることの証明であるかのような錯覚を引き起こしてきた。

ただ、こうやって他の言語で表現してみてニュアンスだとか論理的かどうかを検討する機会があると、日本語へ立ち返ってみて反省してみるきっかけになる。たとえば、雨が降るという表現を心境について使う場合があるけれど、そのような用法において「僕には雨が降っている」と表現しても正確に伝わらないどころか、本当に雨が降っている中で心境も良くないかのような誤解を引き起こすことすらあろう。よって、本当の雨が降っているかどうかとは関係なく表現しようと思えば、やはり「僕の『心には』雨が降っている」などと表現したほうが無難だと分かるわけである。

こうした、他の言語において合理的な言葉の組み立て方や考え方が参考になると、もちろん齟齬が生じた場合にどうなるかが分かるようになるので、外国語の本を読む時に注意すべきことが分かるようになったり、冗談や皮肉も分かるようになる。たとえば、『ここがおかしい日本人の英文法』(T. D. ミントン/著、安武内ひろし/訳、研究社出版、1999)に出てくる事例をご紹介しよう。

「『塩辛』とか『畳』のようなものを know しているかどうか尋ねたりすると、滑稽な状況を招くことになります。私の大学の同僚の先生が丁寧な口調で、しかし意味的には理解不能な質問を、私の父にしたことがあります。Do you know shiokara? 日本の居酒屋は初めてだった父は、No, I don't think so. Does he teach at your university? と答えました。そのときの同僚の完全に当惑した表情は今もはっきり覚えています。」(p.139)

この例で何が奇妙というか、或る意味では滑稽なのかを考えてみてください。ヒントは、著者ミントン氏の父親が言った "he" という語が何を指しているのかを考えたらいいでしょう。

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