Scribble at 2021-06-02 16:08:17 Last modified: 2021-06-02 16:10:34

いわゆる「不老不死」を目指すという多くのアプローチや、AI が実現する〈知能〉をヒトに近づけるといったアプローチにしても、なんでヒトが目標とか基準になるのか。AI がヒトと同じ処理をしなくたってヒトを特定の能力で凌駕してもいいわけで、そういう点では既にコンピュータがヒトを超えている点などいくらでもある。コンピュータは、そろばんの天才など一部の有能な人たちを除けば、殆どのヒトよりも100桁どうしの掛け算を速く正確に実行できる。コンピュータは、サヴァン症候群の患者など一部の人たちを除けば、殆どのヒトよりも『広辞苑』に収録されている語句を全て正しく出力できる(書ける)。なんでヒトという、完全無欠でもなければ進化の究極でもない些末な生物種の生態に、一部どころか認知能力のあらゆる点で近づくことが〈良い〉ことであるかのように思われているのか、実際のところよく分からない。

不老不死については、たとえばヒトの意識という現象なり機能を別の物性や組成をもつ何かに〈移す〉とか、あるいは端的に言って「アップロード」するなどという意味不明なことを言っている人々もいるが、正確に言ってそれが〈何のこと〉なのかクリアに説明できた試しはない。何をどうすべきか分かってもいないのだから、当たり前だ。単に我々が手にしているテクノロジーや SF 漫画からの類推で適当なことを言っているにすぎまい。しかし、それが仮に何らかの仕方で可能だとしても、どうしてヒトの意識を僕らがそう〈意識している〉状態のまま〈移す〉とか「アップロード」することが唯一の目的になっているのだろうか。別に、僕らの意識が何かに〈移される〉際に、主観的な経験において何らかの大きな変化を被っても良いはずだ。そういう変化が、生物的ではなくとも何らかの意味で〈進化〉でないと誰が言えよう。そういう変化を被った末に、例えば我々が触覚とか味覚として理解している主観的な経験の回路が失われたとしても、その喪失が〈退化〉であると言いうる明白な根拠はないだろう。海原雄山が、「それは明白に退化でなくとも、明白に不幸だ」と言うなら、それはそうかもしれぬが、しょせんそれは失う側のヒトとしての意見にすぎまい。

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