Scribble at 2026-07-17 07:19:41 Last modified: 2026-07-17 07:42:37

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僕は、聖書なんか読んではいても、しょせんヒトというのは生物種の一つにすぎず、死ねば生命活動は停止して主観的な意識は消失してしまうと思う。敢えて言うのも変な話だが、それは「絶対」だ。したがって、巷にあふれる異世界転生話のアニメや小説から、天国だの浄土だのという観念にいたる全てのタワゴトは、心理学や精神医学が扱うべき病理であるか、または死という実は誰が考えても明白な事実についての強迫観念に陥らないためのセーフ・ガードだと考えるべきであって、人類が作り上げてきた妄想や現実逃避(いや、別の意味では「現実への逃避」でもある)の文化だと言っても良い。

そういう主体から見れば、死によってすべてが終わってしまうわけであり、いまごろになってこの国では哲学の研究者や大学教員たちが満を持したように死生観や「死ぬ」ことについていろいろと本を書き始めたり、あるいはベネターの猿真似で「生まれてこない方がいいのだ」といった、刺激的だが瞬く合間に「哲学っぽいフレーズ」の一つとして予定調和に回収されてしまう、しょせんは凡庸な表現しか使えない連中の本も出ているようだが、哲学者の僕に言わせれば、そういう状況そのものが浅はかという他にない。よって、当サイトで公開している論説をご覧いただければ分かるように、それらの何冊かは手に取ったし所蔵している本もあるわけだが、もう購入してまで読む必要は感じていない。僕が自らの論説と、それを書くために実行してきた考察を超えるものがないからだ。というより、「超える」必要を感じていないからでもある。

その理由は、もちろん明白だと言える。それは、本当のことを言えば、自分自身が死ぬということは客観的にも主観的にも明白な事実だし、それが将来に起きる状況だとか死に至るプロセスといった些末な詳細は分からないにしても、それが確実に起こるということは疑いがないからだ。つまり、誰が何をどう語ろうと関係がない厳然たる、避けがたいこととして確実に起きるからだ。こう考えると、実は大半の人も同じように感じているかもしれないが、「自分が思うことや考えていることを『超える』」必要など、どこにあろうかという結論に至らざるをえないわけである。何か英語やドイツ語の本を読み、そして何か洒脱な表現だとかスマートなロジックをもって何かの基準を「超えて」、そして東大教授などになったり、あるいは「ゲンロン」などとわめいてオタクの集まりに担がれて飯を食ったり、色々な出版社から愚にもつかない本を続々と出したり、文科省のなんとか委員になったりして・・・それで? 結局はあんたらも死ぬじゃんというわけである。そもそも、人文・社会系の学問というものは、いまある生活や人生や暮らしに影響を与える人の心情・心理や人間関係や制度や法令や慣習などを理解したり改善したり向上させるためにある。でも、死について東大教授やハーヴァードの名誉教授になろうと、自分がやがて死ぬという事実をどうにかできるわけではない。もちろん、死ぬリスクを避けるためであれば、われわれがやるべきことの第一は食生活の改善だとか、下らない会社や習慣や制度で疲弊しないように逃げたり対抗することであって、哲学の本を読むことなどではない。

これは、いまごろになって本を出したり論文を書いているような俗物どもとは違って、一度でも死について精密かつ厳密かつ誠実かつ真摯に考えたことがある者であれば、誰でもたどり着く境地のようなものであろう。つまり、死について考えるということ自体が、出版社からの依頼だとか自分自身が癌患者になったとか業績を一つ作るためといった事情で自己目的化してしまえば、それは「哲学者ごっこ」という自己欺瞞なのだ

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