Scribble at 2023-07-07 10:55:07 Last modified: unmodified

Amazon.co.jp で Linux の本に加えられていたカスタマー・レビューが「オライリーの Linux の本は珍しい」と書いていて、何を言ってんだろうと思った。日本のオライリーはともかく、O'Reilly Media からは最低でも1年に1冊は Linux に関連する本が出ているはずだ。また、その人物は長年にわたってオライリーの本を買い集めていると自慢しており、それなら茶色の表紙になっている Linux の本なんていくらでも持ってるだろうと思うのだけれど、そういう嘘つき、あるいは妄想に落ち込んでいる自覚がなくて、TIS や国際電通のシステム部長だと思い込んでいる気の毒な、しかし迷惑な人物とかが、予想外にオンラインにはいるらしい。そりゃ、昔はそういう人々が公で専門家や大企業の部長を装って発言するなんてチャンスはゼロだったわけだから、いまや SNS なりソーシャル・メディアなり CGM サービスによって、自覚があろうとなかろうと成りすましのチャンスや方法なんていくらでもある。

ちなみに、僕は本当に堂島のネット・ベンチャーで情報システム部の部長をやっている。というか、少し調べたらそれが本当だということくらい誰でもわかるだろうから、僕がここで天才技術者とか「神」だとか、あるいは3倍どころか常人の5倍の生産性を誇るとか言ってる半分くらいの冗談はともかく、書いていることの殆どに何の衒いも誇張も嘘もないことはご承知だろうと思う。

で、もちろん一律に「彼ら」のようなデタラメを書いている人々に、誰であろうと悪意や邪気があると言ってはいない。しかし、正常な人間の悪意と異常な人間の無邪気さは、結局のところ他人への影響という社会科学的な効用は同じであり、どちらも一律に遮断したり対抗しなくてはならないものだ。そこに悪意があるのかないのか(つまり可罰的違法性があるのか)は、あとから法律がいくらでも対応するだろうが、法律の致命的な欠陥は、みんな知っているように、僕らが被害を受ける前に助けてはくれないことにある(もちろん準備罪はあるが、たいていの詐欺や殺人の被疑者は準備罪で捕まえることはできない)。

嘘と誠を見分けるというのは、難しい話である。いまの事例にしても、O'Reilly Media から Linux の本が1年に1冊は出ていると知っているからこそ、「何言ってんだ、おめーは」と即座に嘘つきだと判断できるわけだが(仮にそれが日本のオライリーだとしても、日本のオライリーから Linux の本が殆ど出ていないなんて意見は、5冊ていどは出ているのだから正しくないと言える)、このような事実を知らなければ、本当かどうかは自分で確かめるしかない。そして、たいていの人にとって問題があるのは、(1) 確かめようとしない、(2) 確かめる手段・手順を知らない、(3) 確かめる参照先や相手を知らないということであろう。僕らは見聞きすることをなんでもかんでも一つずつ確かめながら理解したり覚えたり応答しているわけではない。「僕らは見聞きすることをなんでもかんでも一つずつ確かめながら理解したり覚えたり応答しているわけではない」という文を読んで、さあ人間は見聞きすることを何でも一つずつ確かめながら理解したり覚えたり応答しているわけではないのか、それとも理解だけはしたり、覚えることだけはしたり、あるいは応答だけはしているのか、いや人間の一部はそれらを全て確かめたうえでやるのか、云々などと考えたり疑問に感じて、ここで読むのを止めて調べ物を始めたり、誰かと議論を始める人なんていないだろう。だからといって、そんなもんだと言っていては、いつまでも同じままであるというのも事実である。

そして、そういう経験があるからこそ、多くの人々はクリシンの本を買ったり、生半可な論理学や哲学の勉強を始めたりするわけであろう。その自覚そのものは、別に僕らのような哲学者が偉そうに冷笑したり軽んじたりすることではない。だって、そういう人がいるからこそ、小平の英雄とか立命館の耽美系野郎とかの哲学っぽい本が売れるわけだしな。でも、そんなクズみたいな本を読んでも無益であることも確かであり、やはり何が重要なのかを丁寧に考えるほかにないだろう。(2) や (3) なんて、必要だと感じるようになる (1) が満たされたら簡単に解決することだし、(2) や (3) についての情報はすでに(ネットだけではなく地方の図書館にすら)ある。

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