Scribble at 2023-11-23 09:34:38 Last modified: unmodified

科学哲学や分析哲学にも数年ごとに議論が再び持ち上がる話題というものが幾つかあって、その一つが "multiple realizability" だ。簡単に言えば、僕らの知性なり自意識を神経細胞とは別の組成、端的にはシリコン・チップで「再現」できるのかどうかという話である。心の哲学における「機能主義」という立場を徹底すれば、恐らく可能であろう。「再現」の条件をかなり緩くすれば、たぶん紙工作を動かすときに自意識が起きると言いうる可能性だってある。

しかし、ここには当たり前だが幾つもの難点がある。たとえば、いま「再現」の条件を述べたけれど、これを緩くするとか厳格にすることなんて可能なのだろうか。条件を緩くすれば、もうそれは別の現象であって、自意識とか知性とは呼べない何かなのではないか。しかし厳格にしたらいいかというと、そこから抜け落ちるところも含めて人の自意識だと言えるかもしれない。一時期は軟弱な脳神経科学の学者とかポモの物書きが何冊も本を書いていた、インチキ・ホーリズムとか「環境主義」の類だ。僕は予感として「インチキ」と書いているが、これを一も二もなく否定する強い根拠はない。

といった議論が数年おきに新しい論点を引っ提げて再燃したりする。でも、もう少し後退りして(哲学においては、この手の留保したスタンスを「メタの議論」などと呼ぶ場合もあるが、そこまで色々な脈絡を俯瞰しているわけでもない。そういうフレーズは、自分で「おりこうさん」だと思ってる連中だけのパワー・ワードであろう)考えてみるに、いったい何のために multiple realizability という概念を掲げて議論しているのかという原点に立ち返ってみれば、僕には「multiple realizability なんていらない」、っていう考え方もありに思える。それは、この概念がそもそも「死にたくない」とか「死ぬのが怖い」という動機に関わりがあるように思えるからだ。意識の哲学とか心の哲学に関わっている人々は、すぐに宗教とか生命倫理学の人々が関わろうとしてくるので気づいているだろうとは思うが、だいたいにおいて意識とか心について執拗に研究する動機のどこかには、僕が PHILSCI.INFO で取り上げている thanatophobia つまり主観的な意識が消失してしまうという意味での「死」が恐ろしいという強迫観念のようなものがあるように見受ける。これは、なにもわざわざ TMT (terror management theory) のような理屈を持ち出すまでもなく、単純に想像できることだ。死にたくないからこそ、どうにかして「自分の」自意識をどこかに「移動」させたり「アップロード」(これは僕にはただのコピーだとしか思えないので、ぜんぜん解決になっていないと思うのだが)したいという願望が生じる。そして、そのための条件として、シリコンでできた製造物の動作においても今と同じような自意識が主観的に生じているのかどうかということが気になるというわけである。恐らく、世界中で multiple realizability を議論している人々がどこかで議論の脇に据えている動機の一部には、こういう願望があるのだと思う。もし multiple realizability が物理的どころか論理的に不可能であれば、この身体で起きている現象としてしか自意識は維持できないのだから、the next logical step としてはいまの自分の身体を生き長らえさせるという医療科学的な進展に期待する他はない。そういう意味だけで言えば、サイバネティクスなんて無意味ということになろう。サイバネティクスは、僕を私を不老不死にしてくれはしないというわけである。

でも、主観的に、いや主観を無視しても何らかの連続性が担保されていたら「不老不死」だと言えないだろうか。このところ世界中で大流行している、「意識は錯覚である」というフレーズ(中身はそれぞれ研究者や物書きによって違うのだが)が総じて正しいなら、しょせん主観なり自意識は脳で生じる反応の side-effect にすぎないのであるから、「主観 - として - 連続して - いる」という錯覚だけを生み出す化学反応さえ維持できれば、その「主観」においては不老不死であろう。もちろん、そんな「状態」に移行して何の意味があるのか(もちろん当人にとっては想像もつかない話だがね)は知らんけど。

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