Scribble at 2021-03-22 09:55:29 Last modified: 2021-03-22 10:00:45

一高生が「1000頁を超すトルストイの『戦争と平和』の英訳版を1日足らずで読み飛ば」していたというエピソードを知ると、芥川が「洋書であっても一日に千二三百ページは読めたらしい」というのを、あながち話を膨らませた伝説に過ぎないと片づけるわけにはいかなくなってくる。

芥川龍之介と伊藤和夫の英語速読、あるいは外国語学習における多読と精読について

この手の話はたくさん残っていて、いわゆる「ハングリー精神」とも言いうる人文系のマッチョ伝説となっている。これはこれでもちろん痛快な事跡だとは思う。しかし、一方でその結果がたくさんの文学作品や科学研究や実業での業績でもあったという事実は認めるものの、それ以外の結果といえば、あの馬鹿げた戦争であり、敗戦であり、そして戦後の下らない行政や政治の再構築であるからには、速読や多読なんて別に人や国が〈善く〉あるための必要条件でもなんでもないということが分かる。

全ては結果だ。結果として、現在も我が国は大半の国から〈金づる〉扱いされたり、性的異常者のサブカルの震源地か、ninjya, geisya, samurai といったアナクロ文化の博物館としか思われていない辺境国家という地位を占めるに至っている。要するに、一部の人間が洋書の多読や乱読や速読をしているだけでは、そういうことをする人々の周囲にしか影響はないだろうし、たいていは周囲どころか当人にしか効用はない。

そして、これは僕の持論だが、そういう読書を積み上げても、結局のところ当人にとっても大して効用はない場合が多いと思う。多読や速読には、目についた立論なり議論の展開なり用語を認めて立ち止まり、悩んだり疑問に感じたり考えるというエピソードと結びついた記憶が残らない。よって、何か或る筋書きの本を〈読んだ〉という事実の記憶は残るし、筋書きの一部は覚えていると思うが(芥川龍之介のような記憶力は別の話だ)、その大半は古臭い言い方をすると〈血肉になっていない〉のである。高校生や大学生が教わるような「批判的な読解」とか「分析的な読解」というものが欠落した、サラリーマンがビジネス本を読む時のようなザッピングに近い(僕は巷で話題になる「速読法」の類は、講師と称する人々が実際に語っているように、字面を模様のように処理するザッピングだと思っている)。

よって、そのようなザッピングでも一定の効果を得るには、何度も読み直すということが重要だと思う。そして読み直すたびに新しいことへ着目したり、気にする箇所が出てきたりするのが望ましい。どのみち、サヴァン症候群でもないかぎり本の中身を暗記することなんてできないわけだし、その必要だってあるとは限らない(HCI の技術によって記憶力を外部メモリで補強できるようになったからといって、無能は相変わらず〈情報をたくさん持ってるだけの無能〉だろうと思う。日本の人文・社会系のプロパーを見れば一目瞭然だろう)。肝心なのは、読むことで何かに気づいたり新しい疑問や興味を覚えることにあるのだ。

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