Scribble at 2026-07-02 17:31:30 Last modified: 2026-07-02 17:52:03

昔から、それこそ平凡社の『哲学事典』っていう僕が生まれた頃に出版された大部の書籍を手に入れて眺めていた高校時代から不思議に思っていることがある。そして、これは大学院で洋書を読むようになって海外の様子を垣間見るようになってからでも全く変わらない謎のようなものとして、ずっと脳裏の片隅に置かれたままになっている。

その「謎」というのは、哲学の辞書とか事典というものに何か有効性なり効用、それこそ「哲学的な」それがあるのかということだ。これは、おそらくは哲学の入門書とか教科書という読み物なり出版物やメディアについて感じる印象にも通じる。ただし、僕はこれらについて一概に疑問や疑念や疑惑を抱いているわけではない。単純に、単著であろうと多数の研究者によるのであろうと、そういうものを公にする意図や事情はともかく効用というものが分からないのだ。

その明白な証拠として、少なくとも僕は学部時代から大学院の博士課程を出るまで(中退だけど)、誰一人として哲学の事典や教科書について話題にした人は、教員だろうと同級生や下級生や先輩だろうと、いなかったという事実がある。まるで、自分が研究するときに事典を使っていることが他人にはとても言えない恥辱であるかのようだ。「岩波の『哲学・思想事典』によれば~」なんて言おうものなら、相手が冷笑を浮かべることは必至であり、それはつまり「哲学の概念を字引きで学んだような奴」だと思われてしまうということに他ならないのである。哲学の研究者たるもの、「疎外」という概念はヘーゲルの原書で学ぶべきであり、辞書を引いて知ることなどあってはならぬ、というわけだろう。

これは、奇妙な心理だ。なぜなら、哲学者とは通俗的なイメージでは碩学のことであり、要するに物知りのことなのだから、知識や情報の元が教科書だろうと事典だろうと、とにかく「なんでも知っている」というステータスこそが哲学をやっている人の人物像だったわけである。しかし、当の哲学プロパーは、そういう辞書的な知識というものを忌避する傾向があるというわけだ。実際には、大学で哲学を教えている教員の大半は「洋物」の本を読んで『思想』や『理想』や『現代思想』や紀要に感想文を書くことが仕事のくせに、他人が書いた事典に頼ること、あるいは事典に頼っていることがバレるのだけは安っぽいプライドが許さないというわけだ。

でも、この国では哲学の事典が意外に数多く出版されているし、なんなら個人が単著としてすら用語集をビジネス書の出版社から出しているほどだ。つまり、この国では哲学の用語を知っていることが何かのステータスになるのだろう。「ちょうえつろんてきかんげん」とか「かりふぉるにあいみろん」とか「だつこうちく」とか「ちゅうどうたい」とか「ようじょがだいすきなゆうびんはいたつ」とか、そういう言葉を知ってると、何かの階級が上がったりレベル・アップしたような気分になれるのだろう。

ここで強調しておくべきこととして、僕は事典とか辞書というものを否定しない。僕は小学校へ上がるまでに自宅で百科事典を通読して育ったようなものなので、その雑多な知識の寄せ集めを雑多に受け入れて自分で好き勝手に組み合わせるという、いわば伝統的に哲学者がやってきたこと(これはデリダが推奨すらしたことでもある)を無自覚にやっていたのだが、その魅力や威力は実感として知っているつもりだからだ。

英語の勉強について当サイトで書いている論説でも取り上げている話だが、最強の単語集は英語の辞書である。事典や辞書は、使う側が(僕ていどですら)クリエーティブに扱えば強力なツールとなる。したがって、冒頭で僕が感じていた問いというのは、事典の存在意義というよりも、寧ろ自分たちで出版に携わっておきながら、どうして哲学のプロパーは殆ど事典を話題にしたり活用しているようには見えないのかということだ。何を忌避したり恐れているのか。事典で得た情報や知識だけで哲学することがそんなに恥ずかしいのか。プロパーが事典を正当にリソースとして扱えば、飲茶だかウーロン茶だか、ああした暇と金にまかせてものを書いているだけの俗物なんかに哲学の本を書かせるような出版社はなかったであろう。

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