Scribble at 2023-11-14 17:21:43 Last modified: unmodified

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同署によると、島田容疑者は女性風呂に入ったことは認めているが、「心が女なので、なぜ女子風呂に入ってはいけないのか全く理解できない」と供述しているという。

「心は女 なぜ入ってはいけないのか理解できない」 女性風呂に侵入疑いの男逮捕 三重

これなぁ。僕は、昨今の動静は少し性急にすぎるという気がする。

まず最初に、肉体として男性の人物が「心は女性」なんて言っても理由にはならない。心が女性だと自覚するのは構わない。それは誰にも問われる筋合いのことでもないし、錯覚だろうと願望だろうと勝手にすればいいのだ。心が女性だと自覚している男性がプログラミングしていようと、阪神巨人戦をテレビで観ていようと、天一でラーメンを食っていようと、靭公園のベンチで鼻くそをほじくっていようと、そんなことはどうでもよい。しかし、女風呂へ入ったり女子トイレへ入ることは、当人がどう自覚しているかだけで済むことなのではない。

これを「抑圧」だと叫ぶのも確かにそうなのだろう。もし女性だという自覚のある人物が女性として扱われるのを拒まれたら、それは気の毒な話である。でも、そういうことは他の場合にもあって、社会の防衛にとって大切な慣習なり決まり事を守っていなければ抑圧されるのである。たとえば、いくら自分がプログラミングの天才だと思いこんでいようと、何か具体的に実装してみせられなければ、どこの企業も採用しない。それを「抑圧」だと言ったところで、社会はそういう基準によって維持されているのだから、証明できない人間がどれほど自分でプログラミングの天才だと言い張ったところで認めようがないのだ。

もちろん、「女性」であることが外形的な特徴だけで決められるものではないことは確かだ。男性の洋服を着ていたら女性とは分からないような人もいるし、逆に女性の格好をしていたら男性とは分からないような人もいる。更にはコスプレとか、性癖とか、色々な理由でわざと男性が女性の格好をしたり、女性が男性の格好をすることだってある。外見では、単純に真面目なのか冗談なのかも判断できないことがあろう。そして、そのような不確実さがあれば、たいていの社会はどちらかの方針を採る。外形的な特徴で男性と女性を区別するか、あるいはそもそも区別をしないかだ。

アメリカの IT 企業で CEO となる人物を排出していながら、母国ではいまだに宗教やカーストといった事情で複数の大人が幼女を強姦する風習があるという酷い国があって、国名を変える予定らしいが、いまは「インド」と呼ばれている。このような国では、現在も多くの地方でトイレが整備されておらず、野外排泄が多いとされており、その場合でも排泄場所に男女の区別がないという(JICA, 「インド国トイレ整備に係る情報収集・確認調査、ファイナル・レポート」, 2015)。こういう状況なら、心がどうであれ同じ場所で排泄するのであるから、主に左翼の人々が言っているような「抑圧」とやらは生じないのであろう(その代わりに別の問題が起きるとは思うが、大学で教えたり紙の上に書く「正義」だけが重要であるような人々にとっては、「抑圧」さえなくなればどうでもいいのだろう)。

どういう問題が生じるかはともかく、「抑圧」をなくすべきだと考える人がインドと同じ風習にせよと訴えるなら分かる。しかし、外見が男性であるような人物が女性トイレに入るようになるのが望ましい社会だとは思えない。もしそうであれば、「心は女性」と言い張っているだけのスケベが入っても分からないし、逆に「心は男性」と言い張っているだけのスケベな女性が男性トイレに入ることを拒めないのであるから、どういう人物がどちらのトイレに入ろうと外形的には是非が問えないということであり、これは要するに男女の区別をしないインドの野糞と同じであろう。

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