Scribble at 2024-02-21 16:50:24 Last modified: unmodified
関大の修士だった頃は、千里山へ行くと決まって中央図書館の地下にある個室か、あるいは大学院生の研究室で過ごすことが多かったのだけれど、特に図書館の地下では書庫に入り浸って雑誌のバックナンバーを片っ端から眺めるということをやっていた。なんだかんだ言っても、端末で検索なんてするのは最初から目当ての論文だとかキーワードが分かっているときだけの事務作業であって、もともと実務能力が桁違いの僕にしてみれば、そんなものに何の魅力も感じない。やはり、バックナンバーを創刊号から片っ端に眺めて、そのときにたまたま興味をもったアイテムを見つけるという偶然に期待する方が楽しいものである。そして、恐らく学生時代というのは、そういう非効率なことに敢えて取り組める時間なのだ。
たとえば The Journal of Philosophy のような、いわゆる「分析系」のプロパーであれば、いやプロパーでなくても学部生ですら知ってるような雑誌のバックナンバーを眺めていると、1930年代前後には、やたらと "value" という言葉を使った論説が目立つ。そして、丁寧に調べている人は昔から知ってたことだろうと思うが、実際には「分析哲学」なんて言ってても、本来の意味である言語分析なり論理的構造の分析をやってる人なんて昔から殆どいないのである。したがって、こういう理由もあって僕は哲学の教科書というものを、とりわけ哲学史として書かれている場合には信用できないのである。