Scribble at 2021-06-25 09:18:00 Last modified: 2021-06-25 09:32:24

大阪府議会の健康福祉常任委員会で24日、山田健太府議(民主ネット、枚方市選出)が、府の新型コロナウイルスの病床確保計画について問う中で、府健康医療部の幹部らに「みんな文系なんですか」と、文系を侮辱するような発言をした。

府幹部に府議「ロジックめちゃくちゃ、みんな文系?」…病床計画で

何度か書いている話だが、欧米の伝統として長らく教会が学問や知識の権威だった時代があったせいで、そこでの必須科目であった修辞や歴史や哲学と、もともとは今で言う「工学」なり「技術」として扱われていたが近代に入って新興の学問として発展してきた物理や数学とのあいだには、歴史的な経緯での対比なり対立があった。日本にはそのような経緯がなく、言わば欧米の経緯を受け継いだ近代の学問や学校制度に反映されていた対比と対立を〈コピペ〉したにすぎないのだが、そういう経緯を正確に受け継いだり理解していない状況すら自覚がないと、慣れの果てとしてウィキペディアをコピペして「国紀」を書いてしまう愚劣な構成作家が凡俗の喝采を浴びたりする。また、上記のように色々なところで「理系」だの「文系」だのという妄想(「観念」とすら言えない)を振り回して、せいぜい複素解析の演習問題が解けるていどのことで理数系の能力があると過信している、それこそ解析や計算には適していない知能の人間が、何のコンプレックスがあるのかは知らないが、かように脈絡上の類似性という余地があれば次々と差別意識を他人にぶつけて溜飲を下げるという行為を繰り返す。

もちろん従来の差別がそうであるように、差別的な発言とか判断が起きる理由は、無能な凡人による腹いせとか気分転換である。爵位を持つ貴族であろうと、数兆円の資産をもつ金持ちであろうと、凡人には死ぬまでコンプレックスがついてまわるため、何か機会があればぶん殴って気分を晴らすための〈心理的なサンドバッグ〉が必要である。本当のところ、それが部落と言われる特定の地域に住んでいる人々でなくてはいけない必要はないし、「文系」と言われる学科を出ている人々でなくてはいけない必要もなく、あるいは特定の性別とか国籍とか肌の色とか性癖とか出身大学とか生まれた都道府県とか地位とかである必要もない。要するに、このような殆ど歴史的・発生論的な経緯という事情しか説明するべきことがない、哲学的に言って宇宙や世界の本質を語るうえで何の正統性もない観念を弄ぶというのは、オンライン・ゲームで暇潰しにスライムをぶっ叩いているのと精神構造は殆ど同じなのである。それゆえ、哲学的には何の重要性もない話であり、僕はこれを社会学だの何のという分析道具で実体化して扱うことは過剰な theme-setting であり過大評価でしかないと思うので、幾らでも批評はできるが PHILSCI.INFO でも論説としてまとめたりする労はとってこなかった。はっきり言えば、多くの差別意識にも言えることだが、こういうことは単純に精神分析やカウンセリングの話なのだ。

かつて、差別する側にはどのような〈思想〉がありうるのかという問いを立てたこともあったが、あれは今では間違いだと思っている。「治療」すべき何かの精神疾患だとまで言うつもりはないが(そして、場合によってはこういう判断自体が差別に転嫁しうる)、少なくとも〈思想〉のような体系的で一個の理屈を表すような何かとして実体化することは過大評価にすぎないと思う。寧ろ、自己啓発なりカウンセリングなりというカジュアルな手法で「解消」すべきであり、これを何かの政治制度やイデオロギーと結びつけてしまうことが、却って差別する側の正当化を引き起こしたり(まるで差別構造が「日本の伝統」であるかのような錯覚を引き起こす)、何か尊重するべき一つの〈思想〉であるかのような錯覚を引き起こすわけである。

もちろん、それゆえに人は常に色々と無自覚な事情や理由で動機で他人を差別してしまう可能性があり、そうならないための留意とか、差別的な発想をしてしまったときの軌道修正とか、あるいは現実に差別的な発言をしてしまったときにどう(取り繕ってクズみたいな「思想」を無理に捻り出すのではなく)自ら批評して訂正するべきなのかを、もっと日常の慣行なり会話に根ざした実務やスタイルとして考えたり議論するべきであり、何とか主義だのしかじか論だのと、知性や教養もない左翼や右翼の分際で思想家ぶった御託を捻り出そうとするなという話である。

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