Scribble at 2023-01-25 09:33:48 Last modified: 2023-01-25 09:41:13

壁紙を探して入れ替えたりするカスタマイズは、もちろんパソコンを使う習慣として特別なことでもないとは思う。でも、Windows や Mac で多くの人たちが実際に壁紙を替えたり探したり作成している割に、実のところ極端にバランスの悪い、体系的な知見が蓄積されていない話題だと思っている。

まず、オペレーティング・システムで提供される GUI のシェルとしてスクリーンの壁紙を表示したり入れ替えるという機能そのもののアーキテクチャなりプログラミングといった話題が殆ど語られていない。壁紙のサイトは無数にあるが、その運営者で Windows のシェル・プログラミングの技能を持っている人は、恐らく10万人に1人すらいないと思う(壁紙サイトは10万もないから、これは実質的に「ゼロ」と言いたいわけである。あの、「古典的」とすら言える Digital Blasphemy を運営するライアン・ブリスですら実装の仕組みは知らないだろう)。

もう少しありえそうなこととして、では壁紙をデザインしたり批評するということはどうか。確かに、藝大やデザインの専門学校に「壁紙制作科」なんてないが、壁紙は明解な仕様や要件が存在しているため、もちろんプロダクト・デザインの対象となりうる。実際、壁紙を販売しているサイトでは、複数の解像度をサポートしたり画像のフォーマットを何種類か用意したりと、プロダクト・デザインとして一定の取り扱いをしていることがある。また、フォーラムや CGM でサイトを運営しているところでは、登録ユーザのコメント機能をサポートしている(Deviant Art などが代表例だ)。でも、実際のところ壁紙のデザインについて概略でも解説しているサイトというのは、検索してみれば分かることだが意外と少ない。どちらかと言えば、内装で使う本物の壁紙について書いているサイトの方が多いくらいだ。また、CGM やフォーラムでコメントを書く人はいくらでもいるが、壁紙の批評サイト、つまり壁紙について解説したり論じること自体が目的になっているサイトは、僕の知る限りない。

つまり、graphical shell というアーキテクチャであれ、壁紙という画像ファイルの制作なりデザインであれ、あるいは莫大な数で公開されている壁紙の論評であれ、これを自作したり入れ替えたり探すという多くの人たちがやっていることについての、是非や理論とまでは言わなくともヒントや指針のようなものですら、何も積み上がっていないわけである。

確かに、こういうことは地域や時代や人間関係を越えてまで共有されたり継承されていった方がいい「知識」とか「知恵」と言うべきものでもないという見方はありうる。Windows で使う壁紙の選択について親から子へ受け継がれてゆく選択基準とか制作手法なんて、恐らくそんなものを受け継いでいる家庭など一つも存在しないだろう。あるいは、奈良県生駒市や大東文化大学や野村総合研究所だけで共有されている壁紙の選択基準なんてものもあるまい。おそらく何百年が過ぎようと国連が「世界デスクトップ壁紙デー」を設けることなどないだろう。要するに、経済的にも文化的にも、あるいは学術という観点から言っても、パソコンの壁紙なんてどうでもいいことなのだ。誰が何をどう作ったり替えようと構わない。

しかし、家庭や職場には少なくとも何ほどかのルールや牽制が働いていよう。なんとなれば、いくらパソコンが personal computer だとは言っても、家族が画面を見たり同僚が画面を見るチャンスがある以上は、personal であっても private ではないのだから、たとえば壁紙にネトウヨみたいなメッセージを表示したり、畏れ多くもスメラミコトの肖像を表示していたら多くの人は躊躇させられるだろうし、それこそ日本の SE やプログラマと呼ばれる連中が大好きな幼女の裸体イラストが表示されていたら顰蹙を買う筈である。当社に来ていたネットワーク・エンジニアは貸与したパソコンの壁紙に浜崎あゆみの写真を使っていたが、もちろん多くの派遣先では許されていない場合もあろう。でも、そういう良し悪しの基準にしても、いちいち論じるようなことでもないとみんな思っている。

しかし、そうであっても GUI 環境でパソコンを使うという多くの人たちが望もうと望むまいと関わっている状況で、原理原則の話を何もしないというのは、どうも性分として捨て置けないものがある。たとえば、典型的な話題の一つとして、そもそも僕らがスクリーンに表示したり制作したり探したり入れ替えている画像は、「壁紙(wallpaper)」と言うべきものなのだろうか。これも、よく考えたらおかしなことだ。なぜなら、僕らはパソコンのスクリーンを「デスクトップ」と呼んでおきながら、そこに表示しているものを「壁紙」と呼ぶ。じゃあ、スクリーンに表示されているアイコンとかタスクバーは、デスクトップに「置かれている用具」と考えたらいいのか、それとも壁に「取り付けられている用具」だと考えたらいいのか。もちろん、こんなことに一貫性を維持したり求めることは、よくある分析哲学の愚かな喩え話のように、たいていは(無能が哲学の議論をするからだという致命的な理由もあるにはあるが)何のまともな成果も生み出せない。したがって、多くの人はスクリーンに壁紙を設定せず色を真っ黒にする習慣があって、スクリーンの表示領域を「デスクトップ」と呼ぶことは避けられないにしても、「壁紙」について考えたり話す習慣がなかったりする。僕は、これはこれで一つの見識だし、会社で従業員のパソコンにこういう設定を求める会社があってもいいと思う。

GUI のシェルについて、色々と調べたり、また Windows 用の互換シェルについてもサイトを運営してきた者として言えば、コンピュータの GUI 環境にかかわる多くのプログラミングやデザインや設計のアイデアは、はっきり言って未熟なままである。体系的で精密な学術の手にかかるまでもなく、マイクロソフトなりアップルといった会社の中ですら、GUI のデザインについて指針はあるものの、スクリーン全体についての原理的な指針といったものはない。結局、僕らが使っているパソコンというものは、1960年代から1980年代くらいにかけて幾つかの企業で取り入れられたバラバラなアイデアと比喩の寄せ集めにすぎないからだ。

たとえば、僕らが「デスクトップ」と言っているものは、GUI シェル・プログラミングの世界では root window と呼ばれていて、ウインドウ・システムにおける「親のウインドウ(最初に表示されるウインドウ)」でしかない。したがって、これを特別視する必要がない環境や業務においては、これだけに壁紙などという機能を実装するのは無駄なことだと考えても全くおかしくはないのである。また、このようなものにすぎないウインドウを「デスクトップ」と呼ぶことすら馬鹿げているという意見があってもいい。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook