Scribble at 2026-04-04 21:08:33 Last modified: 2026-04-06 06:52:21

このところ新書を手に取らなくなった。いや、正確に言うと「新書の新刊を手に取らなくなった」と言うのが正しい。古本あるいは既刊の新書は蔵書も含めて毎日のように接しているけれど、書店で新しく買い求める新書は極端に少なくなった。

僕は当サイトで、これまでは新書を教養書として過剰に宣伝するような人々を馬鹿にしてきたし、実際に今でも新書だけで必要な情報なり素養を身に着けられるとは思っていない。とっくの昔にマスコミから消え去った宮崎哲弥氏とか、あるいは元ライブドア取締役の小飼 弾氏といった(彼の有名な書評ブログは10年前に更新が終わっている)、乱読の積み上げによる力業の蘊蓄を教養と混同している手合いは、体系的な素養をもたず情報量だけでしか物事の当否を判断できない、いわば生成 AI 以下のネット・ジャンキーどものヒーローだったわけだが、われわれのような学術研究の手ほどきをうけた経歴を持つ人間にとっては、最初からそんなものが教養なり知識の基準や必要条件であるはずがないのは自明のことだ。したがって、新書を何億冊読もうと教養や学識など身に着かないのは当たり前である。新書というのは、いわば学術研究の議論や論争が過ぎ去ってからはるか後に書かれる、まとめ記事やレポートのようなものだからだ。正直、日本で出版・販売されている新書の 90% は、生成 AI のコンテクスト・ウィンドウが強化されたら自動で原稿を吐き出せるていどの品質であろう。

しかし、いまはまだ生成 AI がその品質で文章を吐き出すことはできないわけだし、吐き出せるとしても液晶画面なんかでなんでもかんでも文章を読みたくはない(実際、画面で文章を読むのは疲れる)。それに、いま述べたように 10% ていどは生成 AI が吐き出せないような品質の新書もあるわけだ。それは、もちろん斬新な切り口だの斜に構えただけの本ではなく、体験談やルポの類だ。理由は言うまでもなく、生成 AI は医療現場で手術をした経験もなければ、AV 女優として仕事でセックスしたこともないだろうし、それから京都大学の社会学教授として大阪の繁華街をブラブラ歩いた経験もないだろうからだ。伝聞として報告はできても、生成 AI に自らの経験を書くことは絶対にできないのである。なぜなら、生成 AI どころか機械ごときに「自ら」などありはしないからだ。もちろん、これは科学哲学者としての発言でもあることに注意してもらいたい。

それから重要なこととして、生成 AI はオンラインのソースを使ってトレーニングされているので、あたりまえのことだがネットに存在しないソースの情報もまた直接は扱えない(そういうソースがオンラインでないところに「ある」と知っていない限りは、おそらく推測すらできない可能性もある)。そしてその統計的な推測が正しいかどうかの判定基準も、これまでデータ・サイエンティストがやってきたような、推測の結果をフィードバックして微調整するベイズ的な仮説更新のプロセスに比べると、大規模なトレーニングのやりなおしが必要であるため、実際にはきわめてペースが遅いと言える。これらの理由を知っておくだけでも、生成 AI に過剰な信頼や期待をもつのは「科学的に言って不見識」であることが分かるだろう。

そういう実情があるとしても、ヘタレは現行の生成 AI にすら凌駕されるのであり、それゆえ生成 AI に聞けば済むと思える内容の新書は、もうお金を払って買う気など起きないし、そもそも書店で手に取る必要すら感じなくなった。こう書くと必ず出てくるのが「実際に読んでみなきゃ批判できないはずだ」という、実は無責任な反論だ。こういうことを言う人は SNS で安っぽい自分の感情だけで他人に「正義」という石を投げて回っている連中と同じであり、僕が僕自身の見識と経験でもって判断していることに、自分では実際に読んだことなどないくせに、クリシン的なくちごたえのパターンとして覚えているというだけの動機で、こういう反論を脊髄反射的に書いてしまう。こういう人たちもまた、生成 AI 並みの知性の持ち主であり、僕のような哲学者がいちいち相手にするほどの人物ではない。

実際のところ、人はたいてい見た目や第一印象でものごとを判断しており、そしてそれは実際に正しいことが多いのだ。日本人のくせに髪を染めている人間は実際に大半が不真面目であり、そして現に髪を赤く染めている僕は不真面目だ(もちろん、不真面目であることが悪いかどうか、そして何について不真面目であることが悪いのかは、別の問題である)。また、僕が駄本のシグナルとして断定しているように、本のタイトルに「革命」だの「衝撃」だの「知の~」だの「解」だの「シン・」だのというフレーズを使っている本も、殆どがゴミだ。そして、こういう仮説なり予感なり経験則というものにコミットすることで、僕は自分の人生で何の失敗もしていないし、何か重大なことを知らずに生きているという不安も感じない。

これも当サイトで言っていることだが、そういうガラクタのような本は、まさしく「ゼロ算術」つまり読もうと読むまいと人の考え方や生き方に何の影響も与えない、ゼロの足し算や引き算でしかないのだ。いや、場合によっては正しいかもしれない経験や知識に馬鹿げた情報や俗説を付け加えて知的な意味で人を後退させてしまう恐れがあるからには、ゼロの掛け算になってしまう場合すらあろう。

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