Scribble at 2022-01-01 22:43:11 Last modified: 2022-01-03 10:49:57

見聞きしていて気になる、あるいはウンザリさせられる日本語の表現とか運用というものは、もちろん昔から色々とあるわけだが、ここ最近は何度か紹介している「かたち」という言葉の濫用が目立つ。「~というかたちで~」などと、それまで自分が喋ってきた内容を他人事のように扱う、僕に言わせれば「卑怯者話法」とか「無責任話法」と言いうる運用だ。しかし、こういうものは大半が生物種などと似たように、すぐに他の表現に取って代わられるか消失する。ちょうど、20年くらい前にワイドショーなどで一斉に流行した「~ね」という語尾の話法も、既に廃れてしまったらしく、ここ最近は多用されている印象がない。

そして、何年か前から役人や左翼の活動家や NGO の主催者が使うようになった言葉遣いが、「学び」とか「気づき」という気持ち悪い表現だ(もちろん、既に当サイトでは「名詞化した動詞連用形の独立的用法について」という論説で紹介してある)。とにかく、このような言葉遣いが頭にくるのは、「学び」や「気づき」という言葉の語感から言っても、安易に結果だけくれと言っているように聞こえるからだ。それまでに至る修練や努力など必要なしに、手軽に成果だけを手にしたいというイージーなスマホ世代のゲーマーみたいな感覚に思える(実際、e-sports だろうと MMORPG だろうと、「一線級」のプレイヤーのほぼ 99% はプログラムを1行も書けないユーザでしかない)。

他の流行語や刹那的と言ってよい語用の習慣と同じく、こういう言葉遣いもすぐに廃れるのだとは思う。なるほど官公庁のような外部からの批判から保護されている状況では、イボに溜まっていく膿のように、延々と保存され続けて、ウンコみたいな悪臭をまき散らしながら生きながらえるのかもしれない。しかし、いまさら文科省なんていう国家公務員試験の掃き溜めみたいなところの小役人に母国語の運用を指導されるほど落ちぶれてはいないので、子供をどう守るかだけが課題だ。

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