Scribble at 2022-08-29 10:02:45 Last modified: 2022-08-29 10:22:25

添付画像

シンギュラリティ(人工知能の能力が人類の知能を超える技術的特異点)が訪れるとされる時代に、人の心に深くささっていく芯のある本を。たくさんの本よりもいい意味でつまずく一冊との出会いを生み出したいと思っています」と幅。

物語と繋がる「本の森」は、安藤忠雄から子どもたちへの贈りもの。

建築とか都市計画の連中って、土木や水理学や測量の人たちとは違って、思想とか哲学とかの素養もなければ、社会への関心も実は希薄なのに、やたらと自分たちはコミュニティだの人間関係だの世の中に貢献してるっていうポーズをとりたがるよね。バカのくせに現代思想の話とかするのも、そういう自意識プレイの一つなんだろう。中には初等レベルの論理学も勉強したことがないくせに科学哲学の話をする奴までいるから困ったことだ。

ともあれ、「シンギュラリティ」が到来すれば、都市計画のたわごとをくりかえす連中や大半の建築家なんて即座に履いて捨てられるような存在なのに、自分たちが高尚な思想に携わっているという安っぽい自意識があるものだから、なにかそういう趨勢とは関係なく天空の高みから眺めているような気分なんだろう。まさに安藤忠雄その人も含まれる「厨二病」の典型ともいえる記事だ。

僕は、この図書館が建設される様子を、まさに基礎の工事から毎日のように傍を通りながら眺めていたけれど、ぜんぜんいいとは思わない。まさに大阪維新の会がつくるべき図書館という気がするよ。本を単なる使い捨ての道具として扱い、おそらく配架している本の多くが10年ともたないような直射日光に晒される。おまけに、何の意味も効用もない安藤流のコンクリート建築(そろそろ誰か言えよって思うけどね)。子供が本をもって外へ出るのは構わないが、同時にそれは〈借り物〉であり、税金によって提供されていることを子供に教えるくらいの努力は必要だろう。僕もたくさんの本を借りてきたが、公共図書館で無料で本が読めることは、もちろん最低限の文化的な生活を送る権利として〈現在のこの国では〉保障されてはいるが、当然のことではないのだ。それができる経済、軍事、外交、治安といった数々の要素が一定の水準を超える国において始めて提供できる行政〈サービス〉であり、当たり前のように享受するものではない。維新が得意とするトリクル・ダウン経済学の発想なら、そこへ訪れる暇で裕福な子供の中から gifted だか talented だか知らないが、その手のガキが10歳でハーヴァード大学に入ったり量子力学のつまんない教科書を書いて芸能人に推薦文を書いてもらうなんてことが起きたらハッピーというわけだ。僕はそんなことの積み重ねで世の中が〈良く〉なるなんて妄想は信じない。だが、そういう妄想を建前だけでも期待して作られた、ポストモダン建築と本質的には何も変わらない成金趣味が、この図書館だと思う。

そもそも内装を見たら分かるけど、あの佐賀とかいう辺境地帯にある「ツタヤ図書館」とそっくりじゃん。都内の腐れロハスが大好きな軟弱青年たちが好む、木目の部材をたくさん使った「やさしい」室内。バカだよなぁ。いくら良い木を使っても、維新の基準である事業継続性というものがなければ即座に壊されるというのに。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook