Scribble at 2022-06-16 19:53:47 Last modified: 2022-06-17 10:25:58

さきほど Feedly で見かけたのだが、酒井泰斗さんが絡んでいる分析系のプロパーがアメリカの分析哲学の歴史に絡んだ新刊を出したので、それに関連するイベントに参加するという。「ほとんど接点のなさそうに見えるコンピューター・サイエンスと分析哲学という二つの学問知のルーツを繋ぎ、その土壌となった大学制度や研究機関の成り立ちや文化風土も視野に入れながら解説します」と、なかなか興味深い切り口・・・であるようには思えたのだが、アメリカの分析哲学や科学哲学の学界としての裏話的なニュアンスを匂わせる本ではあるものの、目次を眺めるとかなり違和感がある。

ヨーロッパから移ってきた人々がアメリカでヘゲモニーを握ってゆく推移だとか、ランド研究所を初めとする機関や団体と絡んでアメリカの「科学」との距離感を保ってゆく経緯だとか、それでもニコラス・レッシャーのような人物が一定の地位を保ち続けたのはなぜかとか(僕のボスは彼をとにかく嫌っていたが)。そういう〈科学哲学や分析哲学の社会学〉といったアプローチを期待したのだが、目次をざっと眺めた限りでは、ゲーデルだのフォン・ノイマンだのというスター選手と哲学の関わりという、哲学オタクやポピュラー・サイエンスの読みものばかり漁ってるような人々の関心を集めるだけの本に思えた。そして、もちろん分かったうえでの話だとは思うけれど、これは哲学の成果でもなんでもない。当時の状況や人間関係に照らして、哲学もしょせんは文化の一つとしてこうなりましたとさ、という歴史的な詮索以上の何かがあるようにはとても思えない。

ようやく分析哲学や科学哲学でもコンピュータ・サイエンスや情報セキュリティなどの分野で、こう言っては悪いが、フロリディとボストロムくらいしかいなかったような状況から少しは変わるのかと思うが、アメリカやイギリスですら何か際立った業績というものがない。敢えて言えばフロリディやボストロムですら、メディアが喜びそうな社会ネタとか通俗的な著作を除けば、哲学者としてインパクトのある業績なんてゼロだ。それとも、この分野だけは何か特殊であって、Google お抱えの哲学的な権威に収まるといった、日本でなら政府のなんとか委員に収まることが双六のゴールであるような、はっきり言って恥知らずなキャリア・パスしかなくなっているのだろうか。

日本の分析哲学者なんて、どのみち紫綬褒章をもらって岩波書店から自分の著作集を出版してもらうことが「哲学者としてのゴール」なんだろ? 僕の師匠は叙勲なんて拒否したらしいし、そこは科学哲学者として改めて敬服している(ご本人は、もちろん「科学哲学者」という肩書は使ってないが)。

まぁ日本のプロパーや院生も、そういう下らない脈絡とか利害関係に巻き込まれるのが嫌で、情報の哲学とかコンピュータ・サイエンスの哲学とか GPT-3 の哲学とかに関わりたくないと敬遠しているのかもしれないがね。「元ゲーム作家の思想家」なんていう出版業界のおもちゃと一緒にされてはかなわんだろう。それこそ宮台真司氏みたいな、「システム」という言葉を使って哲学や思想に関わってるだけで擦り寄ってくるような、いつごろからか陰謀論の偽反米右翼みたいなのと区別がつかなくなってきた、小室直樹の劣化コピーというべき連中のおもちゃにもされる恐れがある。

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