Scribble at 2022-09-08 20:25:30 Last modified: 2022-09-10 09:40:26

どのような分野であろうと、教科書とか概説書とか入門書と呼ばれる本は、色々な人によって書かれていて、その内容も事項の構成や順番も分量も違っている。科学哲学という分野に限ってみても、恐らくいちばん短い introductory な解説は辞書の記述であろうし、著作物としては『科学史・科学哲学入門』(村上陽一郎)、『科学哲学講義』(森田邦久)のような文庫や新書の本が出ている。そして、もっとも分量が多い概説書と言えば、これを「入門書」と分類するのは不適切だと思うが、The Philosophy of Science: A Companion (eds. by Anouk Barberousse, Denis Bonnay, and Mikaël Cozic) が750ページ以上もあるし、Philosophy of Science: A Contemporary Introduction (Alex Rosenberg and Lee McIntyre) は300ページほどある。introductory な解説を含めた入門用のアンソロジーも500ページ前後で幾つか出ている。このように概説書や入門書だけでも色々な著作物が発行されている実情には、もちろん理由があるし、それなりの(出版社のファイナンスが弱いために大部の本を出せないといった事情ではなく)学術的な根拠もあろう。

まず最初に注意しておくと、「入門」とは言うが、その「門」は一箇所しかないというわけではない。あたりまえのことだが、哲学を学ぼうとするのに一つしか理由がない(しかも〈正しい〉理由とか〈正当な〉理由なるものが)などと言う大学教員がいれば、確実に無能であるか、あるいは学問というものを全く分かっていない〈紙ドライバー〉の博士号持ちだろう。世の中には、ママに買ってもらった膨大な洋書に埋もれて何か適当な論理式や〈英語のご本〉に書いてある些末な話をほじくるだけで博士号を授与されたような、哲学に携わるどころか人としてすら未熟な者が、いわゆる情報処理だけで論文を書いたりしているのが実情である。そういう連中の馴れの果てが、お勉強だの糞田舎の高速道路だのという些末な話を針小棒大に喚きたてるわけである。もちろん、何か月か前に書いた通り、僕は無能の相手をするつもりはないので、彼らがこういう文章を読んで Twitter のタイムラインにでもペーストして取り巻き連中と一緒に何かおしゃべりしていようと、こちらは何の関係もないし興味もない。過去に書いたことだが、僕はいわゆる「エゴ・サーチ」というものをしないし、自分の発言について評判をうかがう責任など誰にも、なかんずく哲学者にはないのだから、文句があればメールを書けばよいのである。

日本の通俗プロパーの話などどうでもよい。ともあれ、なぜ門が一つしかないかのような教科書が多く、構成もそれしかないかのような書き方の入門書が多いのか。一つには、そういう出版物の編集といった事情はメタ・レベルの話なので、少なくともどこかの「門」から既に当該の学術研究の世界へ入った人にしか(当否も含めて)わからない議論だし、そういうことに興味を持つ必要も義務もないからだ。学問はしょせん当人の興味や問題に応じる手段であり、学問の総覧的な理解が学問を学ぶ目的であるような人は、皮肉にも学者としては不適格なのである。

考えてもみよ。大学の専門課程となって誰かの主催するゼミに参加してくる学生が、初めての演習で志望動機を「ヘーゲル哲学の全体像を知りたいと思ったからです」とか「物理学の哲学で議論されているテーマをすべて知っておくためです」などという理由以外にない(もっと更に本人の興味を詳しく尋ねても、これ以上の答えがない)ならどうだろうか。僕なら、即座に「無能」とか「出来の悪い学生」といった初期評価を下すが、もしかすると昨今の哲学教員には「熱意がある」とか「有望」だと思ってしまう人もいるのではないか。いずれにしても、学問とか学問の対象を、何か一冊の教科書とか1本の動画にまとめられた外形的に素人でも見渡せるような姿の何かだと思い込んでいる時点で、哲学どころか学問についての甚だしい錯覚へ陥っていると考えるべきであろう。

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