Scribble at 2022-12-17 23:24:58 Last modified: 2022-12-19 01:12:09

今期の『科学哲学』を送っていただき、日本では少なかった IBE の論説を見つけて目を通していた。僕は IBE は科学哲学のテーマとして十分に展開されてきたいう印象がなく、科学哲学として丁寧に議論された事例を(僕も初版を持っているが、ピーター・リプトンの本を除けば)知らないので、こういう論説が出てくるのは好ましいと思う。

科学哲学の元学生として、大学に在籍していた時点までの観察で言うと、IBE というテーマを構成している三題噺のごとき "inference," "best," "explanation" というキーワードについて、僕がこのテーマを初めて知ったときに予想し期待した展開の仕方で議論する人が出てこなかった。つまり、"inference" は論理学、"best" は科学史や知識社会学、そして "explanation" は言語学や認知科学である。それらを科学哲学の議論として、それこそ学際的に横断して議論することを期待したのだけれど、はっきり言って英米でも数少ない論説の大半は分析哲学的な、つまりハードな科学哲学として展開されていない認識論の応用みたいなものとしてしか取り上げられていなかった。

「科学者は、物事の最もよさげな説明になってる理論を良しとするのだろう」なんてことを言うだけなら、それこそ科学哲学を専攻しなくても岸見一郎氏ですら言える。そして、僕が IBE の議論を熱心に取り上げる気がしなかったのは、いま前段で言ったように IBE を三題噺として受け取る人が多く、実はそれが theme-setting という視野狭窄に自ら陥っていることに気づかないままオタク的に些末な議論を積み重ねているだけに思えたからだ。まさに分析哲学っぽい科学哲学の悪いところである。実際には、inference, best, explanation なんて大したキーワードではない。それこそ、岸見一郎氏でも分かるような論点でしかないからだ。IBE が科学哲学として取り組むだけのまともな論点をもっているとするなら、それは IBE そのものが何についての最善の説明を推論することなのかという点だろう。もちろん、実在論や形而上学でもない限り、それについての定式化や理解を先取りすることはできないし、何らかの意味で「外堀から埋める」などと気軽に言われたりするアプローチにコミットするとしても、そのコミットメントが妥当である保証もない。しかし、この論点を脇へ置いて IBE についてだけ精緻な形式を組み立ててみても、やはりそれは砂上の楼閣でしかあるまい。科学哲学者は、テクニカルな議論ばかり弄ぶだけでなく、そのていどには哲学者としても洗練されているべきだ。

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