Scribble at 2020-07-16 11:55:09 Last modified: 2020-07-16 12:00:36

地方に初めて開店したとき、「クオリティや正しさよりも優先される判断基準がある」てことを認識してなかった。美味しい店と友達の店、だとどちらが優先されやすいか?という時に地方の場合、後者の要素をある程度追求していかないといけない率が強い

Whatに熱くなる都市、Whoに熱くなる地方

なにやら地方の事業の考え方として参考になるという文章のようだが、地方の人たち、それから地方の人々について語ろうとする素人社会学者がこういう典型的なステレオタイプ(と思える)思考を続けているというなら、これはこれで一考に値するのだろう。もちろん、従来の安物社会学者や啓蒙が大好きで傲慢な都市住民のように、ものごとの本質ではなく人間関係でしか評価できない《田舎者の価値観》をどうこうしてやろうなどという話ではなく、これにはこれで何か一定の合理性があるのかどうかを再考するということだ。しかし、これもまた他方で安っぽいロハス雑誌や《田舎暮らし礼賛》の記事みたいな思考に陥る可能性があり、もう少し基本的な分析の枠組みを整備する必要があると感じる。

そもそも、こうした素人が議論しているときの「地方」とか「都市」って何のことなんだろうなぁ。そこからして胡散臭い偏見がいくつも重なっているように思えるので、もう哲学者としては(素人かどうかにかかわらず)こういう何らかの集団について書かれた文章なんて、いちいち論評とかしてられんよ。雑すぎて。

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