Scribble at 2022-07-10 11:09:17 Last modified: 2022-07-12 16:31:44

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小関清明氏『鹿持雅澄研究』に収められた「『幡多日記』を読む」(p.91-104)という論説で言及されている地名を、分かる限りで地図にプロットしなおした。今回は未見だったウェブ・ページ、特に「四万十町地名辞典」(https://www.shimanto-chimei.com/)というサイトも参考になったし、さきごろ手に入れた『高知県の地名』も活用したため、失った旧版の地図よりも少しは改善されている筈だ。

それにしても、改めて「『幡多日記』を読む」の初出が昭和44年とあることに考えさせられる。僕が生まれた翌年の初出であるから、『鹿持雅澄研究』へ収録するに当たって何らかの補訂はあったかもしれないが、もう50年以上も前に書かれた論説だからだ。幡多地区文化財保護連絡協議会が公刊した『幡多日記』(上岡正五郎、浜田数義/編)は1977年の出版であるため、「『幡多日記』を読む」が書かれた当時は、『幡多日記』の原本を所有されている金剛副寺の住職に閲覧させてもらったとの説明が冒頭にあるとおり、写本あるいは写真などに収められていなければ原本を見せてもらうしかない。とは言え、こういう文書は学術的な価値がどうであれ原則として私物であり個人の財産であるから、勝手に訪れて学問のために見せろと言って通るわけではない。しかるに、小関さんの論文が初めて書かれてから50年以上も経過して僕が『幡多日記』の内容を知りたいと思えば、せめて幡多地区文化財保護連絡協議会から出ている『幡多日記』くらいしか大阪では参照のしようがない。ただ、古本では殆ど手に入らないため、これを所蔵している高知の図書館に何か所かメールやフォームで複写の依頼とか問い合わせをしていたのだが、オーテピアを含めて『幡多日記』を所蔵しているどこの図書館も反応がないのは残念だ。それから、高知大学の図書館に所蔵されているのは撮影した原本らしく、これを大阪の図書館を経由して借りるのは難しい(研究者が大学図書館を経由すれば可能だろうか)。

なお、僕ら元考古学徒が森浩一先生のような先達から何度も教えられたことだが、考古学の研究対象である遺跡も、現代にあって掘り起こす土地であればなおさら、誰かの私有地であったり行政の管理地である。古墳が好きだからといって、みだりに立ち入ったり撮影するものではない。ましてや、その場に落ちているものを何であれ記念と言って持ち去るのは、それがただの土であっても端的に言って犯罪であると自覚するべきである。いわゆる古書についても同じことであって、原本だろうと写本だろうと誰かの所有物である限り、どういう学術的な目的があろうと他人が勝手に見せろと言って見せてもらえるものではないと心得るべきである。まともな学術研究者と、一見すると情熱的だが実はただの社会的不適合者にすぎない暗記バカのような学者とは、そういう見識において一線が引かれる。学問においても、どれほど膨大な本を即座に読む能力があったり、何かに特別な集中力を傾けられようと、サイコパスは才能ではなく、傲慢なふるまいをしてよい言い訳にもならぬ。一定の定められた手順を追うこと、そして相手なり持ち主の了解を得ること、了解を得られない場合もあると弁えること。人文・社会科学の研究は(本質的には理数系の研究でも同じだと思うが)、1秒を争うような成果を競っているわけでもなく、決定的な資料が欠落していてさえ何らかの成果を出さなくてはいけない場合すらあるものだ。学術研究に限らず、われわれは茫漠とした無知に取り囲まれたところで思惟や思索に取り組むほかにないという前提で取り組むべきであり、その対象が『幡多日記』という文献一つであろうと宇宙であろうと目の前の人物一人であろうと、同じことだと知るべきである。

とは言っても、やはり発行され一部には流通していた『幡多日記』にすら目を通せないのは何とも困る。あらためて、図書館どうしの連携に委ねてみるか、あるいは古本屋の関連で調べてみるかしよう。それとも、やはりお金をもう少し貯めて高知市まで行くしかないのだろうか。まぁ、それも風情があっていいと言えばいいし、お金に余裕があれば寧ろ高知まで行って鹿持雅澄宅跡にも足を向けたいくらいなのだが、それはまだ先のことになるだろう。

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