Scribble at 2020-04-03 13:43:23 Last modified: 2022-10-03 09:12:17

高校数学の演習書、特に図形の問題と解答を眺めるのは楽しい。「なるほど、こんな補助線を引くという手があるのか!」と感心させられることが多いからだ。

僕は、この図形の問題を解くのが昔から苦手で、答えを見つけるための補助線を思いつくための発想法のようなものはないのかと思うのだが、そういうものがあったとしても、恐らく問題の意味するところや証明の過程を正確かつ細かく記述していく必要があるのだろう。このような分析は、多くの場合に当たり前のことと見做される。例えば、或る直角三角形を使って何かを回答するなら、その三角形が直角になる角を一つもっており、しかも一つだけもっているということは、多くの数学の参考書では自明とされているため、その事実を証明の仮定として据えることは、明示的に書くようなことではないとされる。しかし、それをはっきり仮定として示さなければ、僕のような人間にとって参考書に書いてる「解法」なるものは、天空からヒントが舞い降りてきたように思えて、そんなものは証明でもなんでもない頓智にすぎないという不信感が起きるのだ。

もちろん、こういうことは要求していくと限度がない。等式の証明において、解答を書くたびに分配法則の証明から書き始めたりしなくてはいけないとすれば、数学の教科書は現在の数倍の分量になるだろう。もちろん、いちどでいいからそういう参考書や演習書を書いたり出版してみてはどうかと思わなくもないが、恐らく現代にあってそれはオンラインや電子書籍のように分量を気にしなくてもいい媒体で可能となるのだろう。なので、これからそういう《超面倒臭い》参考書や演習書が現れることを期待しているのだが、たぶんそういうものは書かれそうにない。

というわけで、いまのところ高校数学の復習をしながら自分としてはどういうものが書けるか、模索しようと思っている。かなり遠大なテーマではあるが、高校レベルの数学や物理や化学から始めて、科学哲学のプロパーが書くテクニカルな論文を読めるくらいの素養を身に着けることを目標に、かなり大掛かりなテキストを作るプランを立てている(そして、その応用として《まともなレベル》の IT 技術者に要求されるべき数学的な素養を体系的に提供することも目標としている)。こういうプライベートなテキストを公表されている国内の方として、学習院大の田崎晴明氏のテキストがよく知られているのだが、あれははっきり言えば《分かる学生向け》であり、読む必要がないていどの素養をもつ学生に向けて書かれているという、理数系のテキストにありがちな矛盾した設定が含まれていると思う。かといって、もう一方の極端としてよくあるのが「文系でもわかる」といった下らないフレーズで書かれた、実は論理的な記述をいい加減な解説に水増ししただけの通俗書だ。実のところ数学や物理について分かるとか分からないというのは、計算が単に速いとか、色々なヒントを思いつくとか、そういう理由で決まるのではない。そうではなく、必要なだけの精度で厳格かつ正確に説明することができるかどうか、つまりは参考書や演習書を書く側の教員やプロパーに論理的な思考力が本当にあるかどうか、そして自分たちが普段から扱っている概念についてどれくらい正確に理解しているかという理由で決まるのだ。

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